「蜘蛛の糸」を今年も(2) 

釈迦に説法するようですが、芥川龍之介作「蜘蛛の糸」はこんなふうに始まります。

  ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、
  独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に
  咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん
  中にある金色の蕊からは、何とも云えない好よい匂いが、絶
  間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでござい
  ましょう。(青空文庫より)

この一節を取り上げただけでも、芥川の魅力が伝わってきます。ここでお釈迦様はどういう気持ちでどういう行動を取っているのか。そして次の場面ではそれがどんな風に変わるのか。時間の扱い方はどうなのか。カメラのズーム効果のような場面描写はどう読めば伝わるだろうか。いろんなことを考えながら読むのです。
先生がきちんと読めば、子どもたちは真似ようとするかもしれません。少なくとも棒読みされるよりは感じるものが多いと思うのです。この作品を黙読したのではつまらないです。
しかし学生は授業で、椅子に座っている姿ではどうしても

    恥ずかしい

という気持ちが抜けきらないのです。
邪道かもしれませんが、やむをえず「どこを見てもいいから人を気にせず、まずは声を出してみましょう」と言って煽ります。

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それでもなかなか声は出ません。そこを辛抱強く見守りながら少しずつ声を出させるほかは無いと思います。
そのためにはまず私自身がきちんと朗読することを聞かせなければなりません。もうこの一節は何十回(いやもうひとつ上の桁だと思います)読んだかわかりませんのでさすがに暗記しています。そこで、テキストは見ずに、学生の顔を見渡しながら、お釈迦様の動きや心理を描くように読んでみます。
冒頭はまだ心理が描けないくらいに読んだほうがいいと思います。そのあと

  やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の
  面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の容子を御覧に
  なりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当っ
  て居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河
  や針の山の景色が、丁度覗のぞき眼鏡を見るように、はっ
  きりと見えるのでございます。

ここでお釈迦様の心が微妙に揺らぐでしょう。揺らぐから池の下の様子を見たのです。これはもう、文楽人形を遣うのと同じです。この人形は何かを考えているから動くのだ、その心は何か、それを考えずに機械的に人形を動かしても、単なる人形操りに終わります。勘十郎さんや和生さんや玉男さんがなぜすぐれた人形を見せるのか、それはけっしてテクニックだけの問題ではありません。・・・ああ、また釈迦に説法でした。
こんな話を聞いたことがあります。幼稚園や保育園で紙芝居を読むとき、あまり朗読調にせず、

    淡々と読む

ほうがいいと。その理由は、読み手の解釈を押し付けずに、子どもたちに想像させるためだというのです。
私はこの考え方には賛同していません。むしろ演技といってもよい読み方を披露することで、子どもたちの想像力を刺激するほうが適切だと思うからです。紙芝居は芝居です。
さて、芥川の「蜘蛛の糸」は、まずお釈迦様が糸をおろすところまでを読むことにしています。
この練習は、次の課題である紙芝居を読むときにも生かせると思うのです。

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