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ヒロインの孤独(2) 

紫の上の年齢ははっきりしないのです。最初に登場した時は「十歳ばかり」と書かれていて、もし十歳なら光源氏と八つ違いになります。そのあと、「十歳あまり」と書かれているところもあり、「十二、三」というところもあります。はっきり年齢が書かれているのは「若菜下」巻で、「今年は三十七にぞなりたまふ」という記述があります。このとき光源氏は四十七歳なので、十歳違いになります。今の小説なら不明確で一貫性がないといってあげつらわれるでしょうが、当時の読者はそこまで厳密なことをいわなかったのかもしれません。
今話題にしているのは、その「三十七」になる前年ですので、三十六歳(源氏と八つ違いなら三十八歳)のときのことです。翌年の

    厄年

を見据えているのか、まさにその厄年に亡くなった藤壷中宮(紫の上の叔母)のことがいくらか念頭にあるのか、死の影すら感じ取っているような気がするのです。彼女は光源氏に言います。「今はこのようなありふれた暮らしではなく、のんびりと仏道修行をも・・と思うのです。この世はこれだけのもの、と見果ててしまったような気がする年齢にもなってしまいました。そのように(出家することを)ぜひお許しください」と。
今なら三十代半ばなど人生がおもしろくて仕方がない頃かもしれませんし、少なくとも来世を願うような年齢ではないでしょう。しかし当時はそろそろ

    初老

という意識があったはずですし、実際彼女には「孫」がいるわけです。
出家を願う言葉を、彼女は「折々」言っていたと作者は書いています。思いつきで言ったのではなく、ずっとそう思っているのです。

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さきほど現代語で書いた部分なのですが、紫の上は「のんびりと仏道修行をも・・」と言いさしています。ういう部分は受験古文なら「『仏道修行をも』のあとには『したいものです』などが省略されています」と教えるところかもしれません。しかし、大事なことは言いさしていることです。途中で

    言えなくなって

しまった彼女の心を読まなければならないのです。逆に「そのように(出家することを)ぜひお許しください」という部分の「ぜひお許しください」は原文では「許し給へ」などというなまやさしい言葉ではないのです。「おぼし許してよ」とあります。この「てよ」というのはとても強い気持ちを表す「つ」の命令形です。「必ずこうしてください」「きっとこうしてください」ということなのです。そこをしっかり読んでみたいと思うのです。現代語に訳せば終わりというのでは高校レベルですし、現代語に訳すとしても登場人物の心情をきちんとわきまえた文章で訳さなければ意味がありません。
先日の公開講座(学生ではなく、一般向けの講座)でこの部分を読んだのですが、ご年配の受講者の皆様には失礼かもしれなかったのですが、その点を強調しました。「私が一方的に皆様に『お教えする』のではなく、こういうところをどう読むかについて

    語り合える

講座にしたいのです」とも申しました。さらには「こういう紫の上の心情を理解した上でどのように朗読するかも考えるべきではないでしょうか」ともお話ししてみました。生意気な奴だと思われても仕方がないのですが、私はいつもそう思いながら「古文」ではなく「文学」のお話しをしているつもりなのです。

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