嫉妬とうはなり打ち(2) 

十世紀の村上天皇、いくらなんでも、中宮に「君の妹と会いたいから手引きしてくれ」と頼むのには限界がありました。そこで今度は内裏の女房に頼んでひそかに会うようにし、彼女(藤原登子)のために調度品も作ったりしたのです。それがエスカレートしつつあることを中宮安子は漏れ聞いて不愉快な気持ちになりました(そりゃそうでしょ)。天皇もさすがにまずいと思い、登子もまた恐ろしいことと思い、この情事はいったん終わりを告げるのです。
このあと、まもなく登子の夫である重明親王が亡くなり、村上天皇は「これで遠慮なく登子に逢える」と、性懲りもなく

    期待する

のですが、やはり中宮安子に遠慮してそうもいかないのです。やがて安子が亡くなると、やっと登子は天皇の尚侍(女官ですが、事実上天皇の愛妾)となって寵愛されたのでした。この話をどう読み取るかは人それぞれですが、私などは天皇も所詮弱い人間なのだと思わざるを得ないのです。
俊寛僧都らとともに鬼界島に流された人物に、平康頼がいます。彼が許されて都に戻ってからまとめた説話集に『宝物集』があります。それには村上天皇のこんな話も載っています。
天皇は、中宮安子の従妹でもある宣耀殿の女御(芳子)と戯れている所をたまたま安子に見られてしまいます。安子はあまりにも妬ましく思ったので、

    土器(かわらけ)

のこわれたもので打ちつけたのです。帝は腹を立てて、女だてらに何ということをするのかと言って、安子の兄弟たちを謹慎させました。安子本人ではなく兄弟に罰を与えるところが今の常識から考えると不可解ですけれども。

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『宝物集』は上記の話のあとに「身分の低い者どもが『うはなりうち』とか言って、髪をひきむしったり取っ組み合いをしたりするというのも道理だ」と付け加えています。
村上天皇の時代というと、『源平盛衰記』にみえるこんな話もあります。
左中将藤原兼家は北の方を三人持っていて、彼は

    三妻錐(みつめぎり)

という異名を持っていました。あるとき、この三人の北の方がひとところに集まったことがあり、たちまち嫉妬心に駆られて殴り合い、取っ組み合い、髪を引っ張り、衣を破ったりしたというのです。兼家はそそくさとその場を逃げ出し、誰も止める者がいなかったので数日取っ組み合いが続いたのです。二人の喧嘩はよくあることですが、三人ともなるとだれが敵やらわからずに手当り次第に暴力を振るった、と『源平盛衰記』は伝えています。
単なる嫉妬ではなく、暴力沙汰になったことが記されていて興味深いのです。もちろんこれらは言い伝えで、事実の歪曲や誇張、ひょっとすると創作まで混じっているかもしれませず、どこまでが事実なのかはっきりしません。
確実に事実と思われる記事が藤原道長の日記『御堂関白記』長和元年二月二十五日条に見えます。

  大中臣輔親の家に、道長家の雑人が多く押し寄せて濫行を働いた。
  これは「蔵」という女房の「宇波成打」ということであった。

ここに「宇波成打」すなわち「うはなりうち」という語が出てきます。どうやらこれは元の妻が新しい妻を妬んで人を頼んで攻撃をかけることのようで、実際に起こっていたことが明らかなのです。

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