嫉妬とうはなり打ち(4) 

前シテは「あら恨めしや、今は打たでは叶ひ候まじ」と言って葵の上(舞台に置かれた小袖)を打ち、ツレの照日の巫女は「六条御息所ほどの御身にてうはなり打ちの御振舞。いかでさることの候べき。ただ思し召し止まりたまへ」と訴えるのですが、御息所の霊は打擲をやめません。結局横川の小聖が祈禱のために呼ばれ、霊はそれに負けて去るのです。
謡曲では「三山」にも「ねたさも妬し、うはなりを打ちちらし、打ちちらす」とあり、「鉄輪」にも「命をとらむと笞(しもと)を振り上げ、うはなりの髪を手にからまいて、打つや宇津の山の夢うつつとも」と出てきます。

    室町時代

には「うはなり打ち」という言葉はよく知られた言葉だったのでしょう。実際、室町時代から江戸時代にかけては、武士の妻の面目に懸けて「うはなり打ち」がよくおこなわれたようです。
おもしろいことに、といっていいのかどうかわかりませんが、「うはなり打ち」は定型化するのです。
江戸時代、享保十七年(1732)か翌年にまとめられた書に

    昔々物語

というものがあります(タイトルはいろいろあって固定しません)。この中に「相応打」について書かれているところがあります。
百二、三十年前には「相応打ち」というものがあって、これは「うはなり打ち」と同じことだと言い、さらにそのあとに相応打ちの詳細について書き記しているのです。

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それによりますと、妻を離別してすぐ、その月のうちに新たな妻を呼び入れたとき、初めの妻が親類縁者から若く達者な女を選りすぐって人数を揃え(身代によって人数は異なる。二十人のこともあれば百人のこともある)、新妻に使いを出すのだそうです。その口上は「御覚悟可有之候、相当打何月何日可参候(お覚悟がおできでしょう。相当打ちのために、何月何日に参上します)」というものでした。道具は、木刀、棒、竹刀などを用いましたが、木刀や棒では大怪我をするので、たいていは竹刀だといいます。
新妻側は「お詫びします」と平身低頭して

    許しを請う

者もいましたが、弱気を出しては一生の恥だからと「御尤相心得、相待可申條、何月何日何時待入候(ごもっともと心得、お待ちしております。何月何日何時にお待ちします)」と返事をする者もあるのです。
当日、元の妻は乗り物に乗り、他の女は皆歩き、括り袴をはいて、たすきをかけ、かぶり物や鉢巻きをして、押し寄せます。門を開けさせて

    台所

から入り、手当り次第に壊していきます。鍋、釜、障子をこわし、適当な頃に、新妻の仲人と侍女郎(新郎の家の門で新婦を迎えて家の中に入れて世話をする役の女)が元の妻の侍女郎とさまざまな言葉を交わした上で帰って行きます。
台所を破壊するというのが「生活させないぞ」と言っているようでおもしろいのです。木刀や棒は大けがをするから使わない、というところからも、相手に傷を負わせることが目的なのではなく、「女の城」である台所を破壊することで意趣晴らしをするものだったことがうかがわれます。
それにしても凄まじい話です。

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