『源氏物語』逍遥ー虫の音しげき浅茅生ー(1) 

大阪にある季刊の短歌雑誌に『源氏物語』について何か書くように言われて、ちょうど『上方芸能』の文楽評と同じペースで書かせていただいています。やはり連載を持つのは緊張感があっていいものです。以前その一回目のものをここに公表しましたが、第二回が最近刊行されましたのでまた掲載しておきます。

 桐壺更衣は宮中を出たその夜にはかなくなり、女御にさえしてやれなかったことを悔やむ帝は三位の位を贈ります。そして他の后妃を召すこともなくなり、七日ごとの法事がおこなわれる更衣の里邸に見舞の品々を送りつつ、更衣とともに里邸に退出した若宮(光源氏)の様子を尋ねては無聊を慰めようとします。
季節は秋になりました。秋は物悲しい季節、と現代人の多くは思うのではないでしょうか。実は『万葉集』には真正面から「秋は悲しい」と詠んだ和歌はありません。ところが中国文学の影響を強く受けた平安時代になると「おほかたの秋くるからに我が身こそ悲しきものと思ひ知りぬれ」「わがために来る秋にしもあらなくに虫の音きけばまづぞ悲しき」(いずれも『古今和歌集』)のように、次第にその意識が定着していきます。
 もともと秋は「実り」「収穫」「収穫物の商い」の季節で、「商(あきな)い」の「あき」は「秋」と同じく「収穫物を交換する時期」のこととされます。秋は活力のある多忙な時期だったのです。しかし古代中国の詩人たちは風(野分を含む)、夜長、虫の声、雁、霜、肌寒さ、月、紅葉、落葉などに敏感に愁いを感じ取りました。紀元前三世紀の楚の人、宋玉は「悲哉秋之為気也(かなしきかな、あきのきたるや。悲しいことだ、秋の気といったら)」(『楚辞』「九弁」)と嘆じ、唐の詩人白居易は「大抵四時心総苦、就中腸断是秋天(たいていしじこころすべてくるしけれど、なかんづくはらわたのたゆるはこれしゅうてん。四季を問わず心は苦しいものだが、とりわけ断腸の思いがするのは秋の空だ)」と詠みました。

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 『古今和歌集』の撰者、紀友則が亡くなったとき、撰者仲間だった壬生忠岑は「時しもあれ秋やは人の別るべきあるをみるだに恋しきものを(よりによって、秋に死別してよいものか。生きている人と会うことすら恋しく感じられる季節なのに)」(『古今和歌集』哀傷)と詠みました。白居易と同じく、秋の別れは他の季節以上に断腸の思いだというのです。『源氏物語』でも夕顔、葵の上、六条御息所、紫の上などが亡くなったのは中秋の頃です。
 桐壺巻に戻ります。
 野分のような風が吹き、急に肌寒くなった「夕月夜のをかしき」ころ、帝は靱負命婦(ゆげひのみやうぶ)という女官を更衣の母(以下「母君」と書きます)のもとに遣わします。肌寒さは秋の深まりや野分めいた風のなせるわざではありますが、最愛の妻と触れ合うことができなくなった帝にはいっそう身に沁みたことでしょう。「苧衾(むしぶすま)なごやが下に臥せれども妹とし寝ねば肌し寒しも(からむしの柔らかい衾を掛けて横になっても、妻と寝ないので肌寒いことだ)」(『万葉集』 藤原麻呂)や「夜は寒み夜床は薄しふるさとの妹が肌へは今ぞ恋しき(夜が寒く床は薄っぺらだ。ふるさとの妻の肌が今ほんとうに恋しい)」(『曽祢好忠集』)などという歌もあります。
 夕月夜は月の初めに見える上弦の月。『源氏物語』では光源氏が嵯峨の野宮に六条御息所を訪ねる場面(賢木巻)や零落した末摘花の邸を通りかかって再会する場面(蓬生巻)にも見られます。草深いところで心晴れぬままに暮らす女人に降り注ぐ夕月の光は、光源氏の優艶な姿や細やかな情愛を象徴しているかのようです。そして桐壺巻でも帝のいたわりの心が夕月の光となって母君の邸に射し込んでいるようには感じられないでしょうか。桐壺帝と月というと、ずっと先の話になりますが、すでに亡くなっていた帝が須磨に謫居していた光源氏の夢に霊となって出現し、光源氏が跡を追おうとすると姿を消して「月の顔のみきらきらとして」いたという場面があります(明石巻)。また帝が亡くなるのはほとんど月の見えない十一月一日頃で(賢木巻)、あるいは作者は帝を月に喩える意識があったのかもしれません。

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