講座を終えて(4) 

行者が七日で造ると言っていたので、猟師は精進してその日を待って、八日目に行ってみると、庵の中には驚くばかりに美しい「千手観音像」が出来上がっていました。しかも不思議なことに周りには造仏した形跡、たとえば削りくずひとつもないのです。あたかも

    自然に湧き出た

かのような観音像だったのです。あまりのことに感動した早速家族や近所の人に知らせると、人々は我も我もと観音像を拝み、帰依したというのです。
これが『粉河寺縁起絵巻』の前半部の内容です。つまり、こうして粉河寺はできたのだ、という「縁起」が描かれているのです。なお、現在の粉河寺ではこの猟師を「大伴孔子古(おおとものくじこ、くしこ)」という名で伝えているのですが、絵巻にはその名は出てきません。
『粉河寺縁起絵巻』には後半があります。寺の起こり(由緒)という意味での「縁起」としては前半で完結するのですが、もうひとつ霊験について語ることも寺の縁起を語る場合には重要です。
河内国に長者がありました。その威勢はたいしたもので、なかば貴族のような生活をしています。では何の不足もないかというと、そうではないのです。いくら裕福であっても長者は不幸なのです。
というのは、一人娘が

    重い病気

で、しかも若い娘には気の毒なほどからだが腫れ上がり、むくんで、強烈な匂いのする膿が出てやまないのです。医学ではどうにもならず、高僧を頼んで祈禱もしてもらったのですが回復の見込みはありません。

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秋と思われる(庭に柿の実などが生っている)ある日、童の行者がやってきて、長者は娘の話をしました。すると行者は「私が祈祷しましょう」といって千手陀羅尼を読んで祈ります。すると娘はどんどん快方に向かい、七日ですっかり元気になったのです。
感謝のあまり長者は七珍万寶を贈ろうとして蔵を開けて次々に出すのですが、行者は「礼などいらない」と言って受け取りません。娘が「せめて

    提げ鞘と紅の袴

を」と差し出すと「形見だというなら」とそれだけを受け取ります(この話を伝える他の資料は「提げ鞘に帯の付いたもの」としています)。住まいを問われた行者は「紀伊国那賀郡粉河」とだけ言って姿を消します。
翌年の春になって、長者は家族共々「なんとかあの行者にもう一度お礼に行こう」と紀伊国那賀郡に向かって旅立ちます。その行列と言ったら、大層なもので、輿に娘を乗せ、長者やその妻は馬に乗り、唐櫃を列ね、高坏(食器を置くお膳のようなもの)だの水瓶だのを用意し、武装した(刀、弓矢)お供を連れ……。大名行列とまではいかないとしても道行く人は驚いただろうと思われる御一行様でした。
しかし那賀郡は広く、「粉河」という地名については土地の人も知らないと言うのです。困っていると、

    粉を摺って流した

ような川がありました。「これだ!」と気づいた長者が川沿いに山に登っていくとそこには草葺きの庵がありました。この中にあの長者がいらっしゃるのではないか、そう思った長者が戸を開けると……。

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