金壺親父恋達引(2) 

タイトルなのですが、公演プログラムには「かなつぼおやじこいのたてひき」とルビが振ってありました。私はずっと「かねつぼ」だと思っていたのでびっくりしました。本文にも出てきますから、英太夫さんの語りも「かなつぼ」で通されたのでしょうね。井上さんがそう書いていらしたのでしょうが、なんだか鉄製の壺みたいで、私は変な感じがします。
楽しみにしていた演目なのですが、実はがっかりしたことがあります。みなさんにはほとんど関係ない話だと思いますが、

    字幕

がありませんでした。古典ならある程度は「こういう話で、こういうせりふが続いて」というのが頭に入っていますが、なにしろ30年ぶりに観るわけですから、そこまでわかりません。よって私にとっては字幕が命綱だったのです。
国立劇場の考え方は、字幕は「語りをわかりやすくするため」のもの、ということでしょうから、こういう作品には馴染まないと考えられたのかもしれません。「むずかしいことをやさしく」の井上さんの文章ですから、聴いていればわかる、ということなのでしょう。もっとも、普段の字幕もやたら難しい漢字が出てきたりして、文楽通にしか分からないのではないかと思うようなこともあります。むしろ字幕は文楽にあまり

    馴染みのない人

に分かってもらうためのものではないのか、と私はそこも不思議に思っています。お役所仕事という言い方は失礼に当たるかもしれませんが、工夫の仕方はあると思います。
私ひとりのために字幕を作ってもらうことができないのはわかりますが、ひとこと愚痴っておきます(笑)。

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そこで私は、まずプログラムを買って、芝居を見るまでに熟読して、人物関係はもちろんのこと、できるだけせりふも頭に入れて、ここでこういうギャグが入る、というようなことまで覚えてから観ました。皮肉っぽく申しますなら、いい勉強をさせていただきました(笑)。
金左衛門の金への執着についての狂気=実は誰もが持っている人間の弱み=が観られればいいな、と思っていたのですが、勘十郎さん演ずる金左衛門はさすがにおもしろいものでした。金壺を掘り出したときのあの

    重量感

にまず驚きました。たしかにここには小判がざくざく入っている、と思わせるもので、それが金左衛門の狂気を表しているようでした。あの重量感はどうやって表現なさっているのでしょうか。野崎村のパロディで「逢いにきたやら南やら」ですが、そこでの金左衛門の恍惚たる表情。すばらしいものでした。平素はしかつめらしい顔をしている人でも、自分ひとりの場所では何かとてつもなく偏狭ですらある嗜好に埋没することがあり得ると思います。そのときは対象となるものを傍目には狂気としか思えないほど溺愛することもありそうです。小判に頬ずりをする金左衛門、観客はその愚かさを嗤うのではなく、そこに

    自分を観る

からおかしいのです。恋しい久松を思うお染の心と何ら変わらない、これは井上ひさしの世界だ、と思いました。
そのあとも、いつもながら手を長く使う勘十郎さんの演技は舞台のスペースを有効に使って主役の貫禄でした。

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コメント

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ありがとうございました

コメント、ありがとうございました。
実は、いただいていたコメントをうっかり見過ごしてしまい、本日(9月11日)やっと気づいたため、お返事が遅くなりました。まことに失礼いたしました。
ご意見ありがとうございました。しかと拝読、心強く存じます。

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