著作権(1) 

紙芝居を学生の前で演じた時に、私は自分なりの工夫をしていくらかアドリブも入れました。するとある学生が「それはダメだと思う。やはり作者が書いたとおりに読むのが当然だ」という意見をくれました。たしかに作者は一字一句身を削るような思いで文章を書いています。それを読み手が勝手に変えるなんて許されてもいいのだろうか、という考えはあります。いかにも現代的というか近代的な考え方だろうと思います。
それでも私はアドリブを入れることはあり得るというか、演ずるものの

    自由裁量

に任せてもよいと思っています。まず、私が読んだのは芝居であることがポイントです。芝居にアドリブはつきものです。落語だって骨格は作者の文章に従うでしょうが、演者によって演じ方を変えるのはむしろ当然だと言えます。
文楽でも原作にいっさい手を加えないことをよしとする考えは根強くあると思いますが、私はそうは思っていません。
もうひとつ、この学生の意見はやはり

    著作権

の考え方が下敷きにあることに引っかかりを覚えます。近代的といった所以です。
平安時代の物語である『伊勢物語』は、誰が描いたのか分かりませんが、少なくとも作者は一人ではないでしょう。その成立は少なくとも三回にはわたっているといわれ、何十年もかけて今のような形ができたのだろうと思われます。
『源氏物語』はほとんどが紫式部の作でしょうが、100%かどうかはわかりません。主人公の光源氏が亡くなった後の巻について、後の時代には続編のようなものまで書かれています。

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今の時代は、文学作品は個人が書くもの、という先入観があって、他人が手を入れるのは作者に対して失礼で、作者の権利を侵害する行為だと思われているようです。パロディはともかく、へたに他人の真似をしようものなら「盗作」ということになって罰せられてしまいます。
たしかに著作権というのは創作者の権利を守るためには欠かせないものだろうと思います。この権利を認めることで安心して作品が書けるからです。しかし昔はそんな権利はありませんから、勝手に

    増補版

を作っても、パロディをこしらえても何とも思われなかったのです。
そもそも作者はものを書いて多くの人に読まれたからと言って報酬がもらえるというわけでもなかったのです。
もし紫式部が現代の作家であれば、ノーベル賞の委員会から「どうか受け取ってください」と頼まれ、ものを書けばすなわちベストセラー、雑文でも目が飛び出すほどの原稿料。印税だけで家の十軒も二十軒も建てたかもしれません。しかし紫式部が京都の

    二条あたり

に豪邸を建てたという話は聞いたことがありません。貴族の間では「あの紫式部」ということで名誉という意味では高い評価は受けたでしょうが、かといって『源氏物語』が何万部も書写されて、それが京の東の市で立て積みされていたという資料もありません。
著作権なんてほんとうに新しい考え方なのです。

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