大序 

文楽の時代物の最初の場面は事件の発端。とても難しい言葉で始まって語りも格調を感じさせ、舞台は左右対称に人物が配置されることが多く、極めて形式的な要素が強い荘厳ささえ感じる場面です。
「うまいものがあっても食べなかったら味はわからない」というところを『仮名手本忠臣蔵』の大序は

  嘉肴ありといへども食せざればその味を知らず

などと難しくいいます。もともとは一座の総帥が語る場だったようですが、いつしか若手が修業の意味も込めて分担して語るようになったようです。
今でも若い人が数人、御簾内で交代しながら語っていますが、昔は数人どころではなかったようです。
三宅周太郎の本をいくらか読んでいたのですが、もっともよく知られる『文楽の研究』には「大序の人々」という項目があります。
昭和3年(1928)の時点で大序には20人ほどの人がいたといいます。そしてこのレベルではほとんど

    文楽人

の中に入れてもらえなかったのだそうです。
三宅さんの書いていらっしゃるところに従うと、大正後期の『加賀見山旧錦絵』大序「凱陣」は十二人で分担したそうです。字数にして1500字くらい。平均すると一人当たり100字ちょっとというところです(実際は長短があったでしょう)。ここから序中に到達するのにひとしきりの苦労があって、さらに序切にいくにはもっと大変で、序切にいったらもうあとは出世街道かと言うとそれもまたとんでもない話だったといいます。何とも厳しいです。こういう修業をされた世代で長く活躍された最後の人は四世越路太夫師だったそうですが、御簾の中に若い人がぎっしりすし詰め状態になってしゅをいれている写真が残っていたりします。

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竹本住太夫師の養父である六世住太夫師に『文楽浄瑠璃物語』という本がありますが、そこにも大序のしんどさが書かれています。
序の切になるまでは羽織も着られず、楽屋で座蒲団を敷くこともできず、弁当は握り飯と梅干し。おそらく一度や二度は誰もがもうやめようと思っただろう、とまで書いています。木谷蓬吟『文楽史』には「皮草履が履けない」ことも記されています。
ところが三宅さんはこの大序の制度が失われたことを嘆いてもいらっしゃいます。別のところに書いていらっしゃるのですが、こういう場は

    修養の意味

があるので、正規の公演の時間とは別に、その1時間くらい前にお客さんを入れて「無名の新人の稽古と修行」のために語らせたらどうかとおっしゃっています。実は私もよく似たことを考えたことがあって、今の公演形式なら、第二部の始まる前の1時間と始まった頃からの1時間くらい、若手や役に恵まれない

    中堅どころ

に語りの場を与えてはいかがなものかと思ったのです。
つまり第二部を見るために来た人が、その直前にふらりと立ち寄ったり、第一部を見て帰るお客さんが少し足を止めて聴いたりするわけです。お金もうけが目的ではありませんから、500円くらいで、10人でも聴いてくださったらそれでいいくらいの発想で。
三宅周太郎のように文楽に造詣の深い人の古典的な本を読むと、ハッとさせられることが少なくありません。

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