春子太夫の「酒屋」(1) 

私は年代的に三世竹本春子太夫師匠(1909〜1969)には間に合っていたはずなのです。しかし春子師が早世されたため、それは叶いませんでした。亡くなったのは昭和44年4月で、まだ60歳にもなっていらっしゃらなかったのです。せめてあと10年、できれば15年長生きしてくださっていたら聴けたのに、と思うと、ほんとうに残念です。
越路師匠や津太夫師匠より少しお年上ですが、淡路で活躍された時期がありますので、文楽ではかなり後輩になります。このお三方はそれぞれに味わいがあって、越路師匠は精緻、津太夫師匠は豪快、そして春子師匠は

    艶麗

という個性がおありだったようです。いわば三者三様の魅力。こういう色合いの違いは文楽にとっては大事なことだと思うのです。みんながみんな同じように三段目語りのように語ったのでは聴いている方はしんどいだけです。逆に、道行のような三段目では気が抜けてしまいます。
文楽劇場開場公演のとき、もし春子師匠がご健在なら二段目(大物浦)が津太夫、三段目(すしや)が越路太夫、四段目(河連館)が春子太夫ということになっていたのかもしれません。いや、もう春子太夫ではなく、たとえば「子」の字が取れたような、あるいはそれ以外の大名跡を継いでいらしたかもしれませんが。
淡路にいらっしゃった頃は

    竹本三木太夫

とおっしゃって、とても人気があったのだそうです。声がよく、技芸にすぐれ、容姿端麗。三味線もお上手だったそうです。性格はとても優しい方だったそうで、三拍子も四拍子も揃った大スターです。

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その淡路の大スターが30歳を過ぎて文楽に入られ、三世豊竹呂太夫(のちの十世若太夫)に入門、呂賀太夫を名乗られました。そのあと松竹の白井松次郎の「松」の字をもらって豊竹松太夫に改名されました。このころに入門されたお弟子さんが豊竹松香太夫さんです。
やがて三世竹本春子太夫を襲名されて人気実力を兼ね備えた

    艶もの語り

としていよいよ円熟されるであろうと期待されていたそうです。
春子太夫という名は、初世が後の三世大隅太夫で、この人は五世春太夫の弟子だったので春子太夫を名乗られたのです。二世豊澤団平が相三味線となった人です。二世はその大隅太夫の弟子であった人です。
三世春子太夫師がその名を継がれた経緯などはよく知らないのですが、ゆくゆくは大隅なのか春なのかそういう大きな名前を継ぐことを前提にされていたのでしょうか。もしそうであるなら、なんだかとてももったいない気がするのです。私は「染太夫」とともに

    「春太夫」

の名が妙に好きで、この名が絶えていることを残念に思っています。それだけに春子師匠がその名を継がれたらよかったのに、と思わないわけにはいかないのです。『妹背山婦女庭訓』の山の段を「染」「春」が語る、というのを聴いてみたかったのです。
三世春子太夫師は艶もの語りと言われた方ですから、「酒屋」「吉田屋」などがニンだったようで、NHKのカセットでも「吉田屋」が発売されました。そんな春子師匠でしたが、昭和44年の2月に思いがけない代役が回ってきたのでした。

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