春子太夫の「酒屋」(2) 

春子太夫師のご自宅は、私の仕事場の近くにあって、つい最近までは奥様がお住まいだったようです。ところが先日その前を通ったら、お屋敷は影も形もなく、目印になっていた「しだれ桜」もありませんでした。「民芸調の」といえばいいのでしょうか、とてもしゃれたお住まいだっただけに残念です。
さて、春子師匠の師匠である若太夫師が亡くなったのが昭和42年4月で、そのあと弟弟子であった豊竹若子太夫(五世呂太夫)が門下に入り、若太夫の孫(三世英太夫)が新たに入門し、さらに文楽を離れていた村上五郎氏が文楽に復帰、八世嶋太夫となって春子太夫門下になります。
2年後、すなわち昭和44年の2月東京公演は『妹背山婦女庭訓』でした。春子師は

    「道行恋苧環」

のお三輪だったそうで、切語りの太夫さんにしては何だか物足りない配役です。ところが、この公演で「山の段」の大判事を語る予定であった八世竹本綱太夫師が休演され、その役が春子師に回ってきたのだそうです。それにしても艶もの語りの春子師が大判事とは、代役にしてもあまりイメージが合いません。綱師は初日からずっとお休みだったようで、春子師匠にとってはかなり負担が大きかったでしょう。それでもなんとか舞台をこなされ、4月の大阪公演(朝日座)になるのです。この公演は豊竹山城少掾と十世豊竹若太夫の三回忌追善興行でした。若太夫追善の演目は

    『艶姿女舞衣』

でした。「酒屋」の中は、すでに五世を襲名していた呂太夫、切が春子太夫、道行に嶋太夫、松香太夫、英太夫が揃ったのでした。春子師にとっては得意演目の「酒屋」ですから、芝居は順調に進むはずでした。ところが舞台稽古の時に春子師は胸が痛いとおっしゃったそうです。

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しかし、自分の師匠の三回忌追善で、しかも自分が中心なのですから、そう簡単に休むことはできなかったのではないでしょうか。
初日の本番、春子師の語りもとりあえず順調に進み、もうまもなく終わろうかというところで突然大変なことが起こりました。春子師が胸をかきむしるようにして苦悶の表情を浮かべられ、語れなくなってしまわれたのです。
この時の模様は劇評家の

    山口廣一氏

がまのあたりにされたそうで、次の朝日座公演のプログラムに書いていらっしゃいます。
冠動脈がつまったということなのでしょうか、激しい痛みに襲われた春子師は見台をつかんで離さなかったそうです。事態に気づいた嶋太夫師が床に飛び上がって残りわずか数分を代わって語られ、春子師は応急処置でいくらか落ち着かれたようです。しかし

    心筋梗塞

の症状は軽いものではなく、もう二度と文楽の床に上られることはなかったのです。
二世豊澤団平師は志渡寺を弾きながら、五世鶴澤燕三師は「松右衛門内」を弾きながら倒れられましたが、三世春子師匠も義太夫節に殉じたような最期だったようです。

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コメント

英太夫さん

「春子師匠のお宅は閑静な住宅街にありました。師匠の奥様は新地でクラブをされていて、とっても粋でした。わたしら弟子の居心地はとってもよかったのです」

「春子師匠が亡られたので、あらためて越路師匠に弟子入りしました。奥様に先立たれた越路師匠は男所帯。家は『さも物凄きあばら家で』(笑)」

前々回の天地会でだったか、それとも越路師匠の追善のときだったでしょうか。英太夫さんが対談でおっしゃってました。

♪やたけたの熊さん

ほんとうに春子師匠のお宅はすてきでした。毎年しだれ桜も楽しませていただきました。
今はその跡地に大きな家が建設されています。
越路師匠にかぎらず昔の文楽の人は質素な家にお住まいだった方が多いようですね。越路師匠もさすがにその後は立派なお宅だったようですが。

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