五代目呂太夫(1) 

来春、豊竹英太夫さんが襲名されるこの名跡。しかし「とよたけろだゆう」という名前から、多くの人は五代目を思い出されるだろうと思います。私自身その例外ではありません。しかし呂太夫は五代続いているわけですから、さまざまな呂太夫がいらっしゃったわけです。
初代の呂太夫は豊かな音量の持ち主で「呂」という文字がよく映る方だったのだろうと思います。「呂」というのは能の世界では張りのある強い声をいうのだそうで、祝言を謡う時の声、

    喜ぶ声

だとされます。初代呂太夫は、ふくよかな朗々たる声の持ち主だったのだろうと想像します。
二代目は腰の定まらない人で、文楽にいたり地方に行ったりを繰り返したようですが、力はあったらしく、また指導者としてはなかなかの力量を持っていたと想像されます。
三代目はのちの十代豊竹若太夫。「合邦」など激しい語りは今も音源が残っており、山城少掾のような語りとは異なった雰囲気を持つ魅力があったようです。四代目は今の嶋太夫師匠。そして五代目へとつながったわけです。
五代目の語りはあれこれ思い出されるのですが、文楽劇場開場公演の

    『義経千本桜』

「すしや」の「後」も思い出のひとつです。越路師匠が切で、権太が我が妻子を維盛の妻子の身代わりにして差し出した後、梶原がそれを引っ立てていく、「縄付き」までを語られました。それを受けて、呂太夫さんが弥左衛門の権太への復讐と権太のモドリ、維盛一家の再会、弥左衛門の後悔、梶原の真意、維盛の出家、そして段切までを語られたのでした。

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まだ20代だった私は義太夫節の真髄などわかるわけもありません。しかし、呂太夫さんの熱演には激しく心を動かされました。そして「吉野に残る名物に」という声を聴いた時は陶然としてしまい、まだ30代でいらした呂太夫さんの将来に自分の末長い文楽鑑賞を託したくなる思いに駆られたのでした。私にとって、あのころの文楽の太夫と言えばもちろん越路太夫であり津太夫でもあったのですが、あの人たちは

    雲の上の名人

たち。実のところ、織太夫、呂太夫が私にとっての「同時代の太夫さん」だったのです(咲さんもすばらしかったのですが、あのころの語り方の癖が今ひとつ好きになれませんでした。その後改善されました)。
ほかにも呂太夫さんの名演はあれこれ思い出せます。「尼崎」も「上田村」もすばらしく、40代で

    切語り

になる力さえあったのではないかと思うくらいの天分であり、努力家でいらしたと思います。平素は穏やかでえらそうな顔をされることもなく、関東(群馬県前橋)出身でいらっしゃるにもかかわらず、あちらの訛りが気にならず、ほとんど上方言葉でお話しになりました。
呂太夫さんは、お母様が女流義太夫の竹本文昇、呂太夫さん自身、昔ながらの「六歳からの稽古」をなさったそうで、はじめは竹本小文昇も名乗っていらしたそうです。大阪住吉の十代豊竹若太夫に入門したのは7歳というから今の常識からすると驚きです。

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