雨を聴く 

織田作之助の小説に「聴雨」があります。
私は将棋が分からないのですが、それでも名前は知っている阪田三吉の話で、南禅寺の決戦ともいわれる、昭和十二年二月の木村義雄八段との対戦にまつわる作品です(このあとさらに花田長太郎八段との天竜寺での対戦もおこなわれ、阪田三吉はいずれも負けている)。
木村八段との対局では、なんでも二手目(阪田の最初の手)に9四歩と指したのが奇想天外な奇手だったとかで(私には何のことかわかりません)、織田作は「九四歩つきといふ

    一手の持つ青春

に、むしろ恍惚としてしまつた」と書いています。
結局阪田は負けたのですが、その勝負からの帰りの車の中でもう一度「端の歩を突いたろ」と思いつき、雨の音を聴いていた、というのが結末なのです。「聴雨」すなわち雨を聴くというのは家の中にいて、あるいはじっと目を閉じて音だけで雨を感じる行為です。雨音は人を自分ひとりの世界に籠らせてくれるものなのでしょうか。
阪田三吉が雨の音を聴いたのは二月でしたが、晩秋の聴雨もまたよく知られています。
唐の詩人で僧でもあった無可上人の詩句に

    雨を聴いて寒更尽き

    門を開けば落葉多し

があります。晩秋の寒い夜、雨音がぱらぱらと聞こえてきます。それをじっと聴いているうちに夜が明け、門をあけると雨の様子はなく、そこには多くの落ち葉が散っていたのです。つまりあの音は雨音ではなく、落葉が屋根に降り注ぐ音だったのです。

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それだけのことといえばそのとおりなのですが、閑寂な晩秋の寒夜の風情が作者の心にしみこむようで、しかも夜が明けて外に出てみると、思いも寄らなかった一面の落葉。一つの悟りを開いたような瞬間に思えます。
『後撰和歌集』秋下によみ人知らずの歌として

  秋の夜に雨ときこえて降りつるは風にみだるる紅葉なりけり

があります。この歌は『拾遺抄』129には歌の形はそのままで「紀貫之」として出ており、さらに『拾遺集』では「秋の夜に雨ときこえて降るものは風にしたがふ紅葉なりけり」の形で、やはり作者は貫之として採られています。
「~は・・けり」という常套的な形を取っていますが、「落葉」ではなく「紅葉」と詠んでおり、さらにそれが「みだるる」(拾遺集では「したがふ)と表現しています。家の中にいながらその目の前で紅葉が舞っているかのようなイメージが湧きそうです。こういう

    幻想的な詠み方

をするのは貫之の本領だと思います。『後撰和歌集』がよみ人知らずとしているのが気になりますが、貫之の作としておかしくないと感じます(「したがふ」より「みだるる」のほうがいっそうそんな気がします)。
ここには、無可上人の詩の静寂とは違った味わいがあるでしょう。
晩秋はなんだか切ないのです。そんなときに降る雨は屋根を打ちつつ、人の心をも打つようです。無可上人にせよ、紀貫之にせよ、それを感じ取るセンス、繊細さがうらやましくなってくるような詩人たちです。
今日から十一月。旧暦ではすでに十月二日だそうで、立冬はまだですが、もはや秋ではなく初冬という時節になりました。
今年の秋は

    暑い日

も多かったのですが、季節は確実に移っています。
どうぞお風邪などお召しになりませぬように。

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