うはなりうち(1) 

11月1日に吹田市民大学でお話しする予定でありながら私が風邪をひいてしまったため、中止になりました。
受講者の皆様方には失礼をしてしまいました。
今さら意味のないことだとは思いますが、どういうことをお話しするつもりだったかをここにしばらく連載しようと思っています。
この連続講座を受講してくださっている皆様にこのブログのアドレスをお教えして、「もしよろしかったらお読みください」とお伝えできればよかったのですが、それは叶いませんでした。返す返すも残念です。

「うはなり」とは聞き慣れない言葉ですが、平安時代の辞書を調べてみると、『和名抄』には「後妻 和名宇波奈利」とあり、「後妻、日本では『うはなり』という」という意味のことが記されています。そして『伊呂波字類抄』にも「後妻 ウハナリ」とあります。要するに男性が新たに妻を持った場合、その後妻を「うはなり」といったのです。これに対して、もとの妻は「こなみ」といいました。
男性の浮気と女性の嫉妬は今も絶えない(?)問題ですが、特に権力者が一夫多妻を公然とおこなっていた時代は女性の苦しみが大きかったのです。その嫉妬の気持ちを心の中だけにとどめる人もいたのかもしれませんが、あらわに表に出す人もいました。
有名なのは仁徳天皇の皇后であった

    磐姫命(いはのひめのみこと)

で、『古事記』に彼女の嫉妬の様子が描かれています。
「その大后、石之日売命(いはのひめのみこと)、いと多(まね)く嫉妬(うはなりねたみ)したまひき。故、天皇(すめらみこと)の使はせる妾(みめ)は宮のうちにえ臨まず。言立てば、足もあがかに妬みたまひき」
仁徳天皇の后の石之日売命(=磐姫命)はたいそう激しく嫉妬(うはなりねたみ)をなさった。そこで天皇がお使いになっている(天皇にお仕えしている)妾たちは内裏に入ることができなかった。何か(女性関係の)噂が立とうものなら、足で地面を掻くように(足をバタバタさせて)妬まれるのであった。というのです。
仁徳天皇はそれでも女性への関心を捨てることはなく、あるとき美人のほまれ高い吉備(今の岡山県)の

    黒日売(くろひめ)

という女性を都に呼び寄せました。ところが黒日売は磐姫命の嫉妬心に怯えて吉備に帰ろうとしました。天皇は諦めればいいのに、未練がましく「沖には船が連なっている、私の愛しい人が帰っていくのだな」という意味の歌を詠んだため、磐姫命は怒り心頭に発し、使者を出して黒日売に「船で帰ってはならぬ、陸路を歩いて帰れ」と命じたと言います。
そののち、磐姫命が御綱柏(みつなかしわ。その葉を大嘗会の酒器に使う)を採りに紀州に行った隙に仁徳天皇は八田の若郎女という女性を妻にしてしまいました。紀州からの帰路にそれを聞いた磐姫命は大事な御綱柏を投げ捨てて都に帰らなかったのです。

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嫉妬するのは日本人だけではありません。
あの、世界的美女と言われる

    楊貴妃

も嫉妬深かったようです。白居易に「上陽白髪人」という詩があり、「紅顔暗老白髪新(紅顔暗に老いて白髪新たなり)」(若々しく美しい紅顔がいつしか老いて白髪が増えた)という女性を描いています。
楊貴妃は玄宗皇帝の寵愛を一身に受けていましたが、それゆえに他の女たちは宮廷から離されて上陽宮などに置かれて、いわば隔離された生活を送ることを余儀なくされていました。十六歳のときに皇帝に召された美しい人がいました。彼女が召されたとき、親類たちは「あなたはすぐに皇帝の寵愛を受ける。顔は芙蓉のようで、胸は玉のようだから」と言い、前途洋々と祝福されたのでした。しかし皇帝に会う前に楊貴妃ににらまれてしまい、上陽宮に送られて、日々を過ごすことになったのです。彼女はもう六十歳になっています。楊貴妃はとても嫉妬深い人であったらしく、嫉妬のあまり二度後宮を出たこともあるそうです。
さらに恐ろしいのは漢の

    呂后(りょこう)と戚夫人

の話です。前漢の高祖(劉邦)の側室で劉如意の生母であった戚夫人は、上体を後ろに大きく反らす舞を得意としたのだそうです。「戚バウアー」(笑)でしょうか。彼女は劉邦の寵愛を一身に受けて、劉如意を産み、皇太子の劉盈(りゅうえい)に替えて如意を皇太子に立てるように懇望しました。重臣たちの反対もあって、皇太子は劉盈のままとなるのですが、これが原因となって戚夫人母子は劉盈の生母である呂后に憎まれることになります。そして、劉邦が死去して劉盈(恵帝)が即位すると、皇太后となった呂太后による報復が始まります。まず、戚夫人を捕らえて監禁し、一日中豆を搗かせる刑罰を与えました。そして呂太后は如意を毒殺、戚夫人も殺害されます。『史記』によりますと、呂太后は戚夫人の両手両足を切り、目や耳を潰し、厠(かわや)に投げ落としてそれを人彘(豚)と呼ばせたというのですから恐ろしいものです。
この話は日本でも知られ、たとえば『十訓抄』という説話集では「唐土(もろこし)に呂后ときこえたまふ后は、戚夫人といひけるうはなりをとらへて、いひしらぬうたてきありさまにしなされにける」(『十訓抄』八「可堪忍于諸事事」-六)と記しています。ここにも「うはなり」という言葉が出てきます。
                  (明日に続く)

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