うはなりうち(2) 

昨日書きました漢の高祖と呂后、戚夫人は『源氏物語』の桐壺帝、弘徽殿女御、桐壺更衣になぞらえられることもあります。
『源氏物語』「桐壺」の冒頭は「「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより、我はと思ひ上がりたまへる御方々、めざましきものにおとしめそねみたまふ」です。「いつの御代のことであったか、女御更衣が多く帝にお仕えしていた中に、さほど高貴な身分という人ではなかったのにすぐれて時めいていらっしゃった方があった。もともと『われこそは』とうぬぼれていらっしゃった女性がたは癪に触る人だと思って軽侮して憎まれるのであった」というのです。この「時めいて」いた人が

    桐壺更衣

則ちこの物語の主人公の光源氏の母親なのです。
嫉妬する「こなみ」たちはたくさんいましたが、その中でも恐ろしいのは弘徽殿女御という人で、この人は右大臣の娘という高貴な家柄の出身でもあり、かなりひどい嫌がらせをしました。それに苦しんだ桐壺更衣は玉のように美しい男の子(光源氏)を産んだものの、やがて若い命を散らすことになります。
平安時代の歴史物語『大鏡』「師輔」にはこんな話があります。
村上天皇の御代に、藤壷には宣燿殿の女御(芳子)、すぐそばの弘徽殿には中宮の安子がいました。安子が中隔ての壁に穴をあけて芳子の姿をのぞいてみると、とても美しい人だったのです。「それであの人は帝の寵愛を受けているのか」と思った安子は「いとど心やましくならせたまひて、穴よりとほるばかりのかはらけの割れして打たせたまひ」(いっそう心がいらいらなさって穴から通るくらいの土器の割れたもので打たせなさって)という行為に出るのです。これも「こなみ」が「うはなり」と妬む様子でしょう。
村上天皇の時代と言うと、『源平盛衰記』(巻一)にこんな話もあります。左近中将兼家という人は北の方を三人持っていたので

    「三妻錐(みつめぎり)」

と異名を取っていました。あるとき、この三人の北の方が同じ場所に居合わせることがありました。すると彼女たちは嫉妬心があらわれて、打ち合い、取っ組み合い、髪をひきむしり、衣を破ったりしました。あまりにもそれが見苦しかったので、当の兼家は「ああ厄介なことだ」といって逃げてしまったのです。北の方が三人と言っていますので、だれが「うはなり」でだれが「こなみ」というわけでもなく、三人ともが相手を妬んでいるのです。それにしてもその様子を見た兼家が面倒がって逃げていくところが何ともリアルで滑稽な男の姿を活写しているといえるのではないでしょうか。

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かなりひどい「元の妻」のお話ばかりを書き連ねてきました。しかし、中には優しい人もいたのです
『伊勢物語』第二十三段は

     緑 幼なじみの恋

の話として知られるものです。幼いころから仲よくしていた男女が夫婦になるのですが、男はやがて河内国の女と浮気をします。ところが妻がまるで嫉妬もしないのです。そこで男は「ひょっとしたら妻が別の男と浮気をしているので自分を外に出したいのではないか」と邪推します。ある日男は一計を案じ、河内へ行くふりをして妻の様子をうかがっていました。すると妻は『あなたが無事に立田山を越えられますように』と、夫を案じる歌を詠むので、男は感動します。しかしなおも男は河内の女のところに行ったのです。すると河内の女は自分で飯を盛ってバクバクと食べていたのです。「下品な女だったのだな」と思った男は幻滅し、我が妻のすばらしさを改めて感じたのでした。「こなみ」である妻が「うはなり」である河内の女に嫉妬心をあらわにしなかったことで男の心が戻ったということになります。
『今昔物語集』(巻三十の十)にはこんな話があります。下野(しもつけ)の男が本妻を捨てて新しい妻をもうけました。そしてもとの妻の家財道具などをすべて新しい妻のところに移したのです。最後に残った飼葉桶(かいばおけ)を持っていこうとする夫の従者に、元の妻は悲しみの和歌を託すと、男はそれに感じ入って、元の妻のところに戻ったのです。
こういうホッとするような話もあるのですが、やはり嫉妬心は恐ろしいのです。
ここまでのお話はフィクションが大半で、史実のように見えるものもいくらかの潤色があるように思われます。出典が文学作品がほとんどですから、やむを得ない面があると思います。
ここで文学ではない歴史史料を取り上げておきます。
『御堂関白記』は藤原道長の日記で、今も京都右京の陽明文庫にその自筆本や古写本が残されています(「世界の記憶」、いわゆる「世界記憶遺産」にも登録されています)。この日記の寛弘九年(1012)二月二十五日条にこんな記録があります。
祭主輔親宅、家雑人多至、成濫行云々、仍遣随身、令問案内、「辰時許事也、只今無一人」云々、仍以家業令成日記、「是蔵云女方宇波奈利打」云々
昔の記録独特の漢文で読みにくいのですが、おおむね次のような意味です。
伊勢祭主の大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の家に、わが家(道長の家)の雑人が多く出向いて、暴れ回ったということだ。そこで随身(ずいじん。貴人の警護をする武官)を派遣して事情を問わせた。「辰の時(午前八時前後)のできごとです。ただいまはもう誰もいません」という報告があった。そこで藤原家業(いえなり)に日記を作らせた。「これは『蔵』という女房の

    『うはなりうち』

である」とのことだ。
自分の家の雑人が朝早くに大中臣輔親の家に押し入って乱行に及んだと聞いた道長は驚いて事情を問わせているのですが、どうやら「蔵」という女房が夫の新しい妻を妬んで襲った行為らしいのです。その女房が自分で襲うことはできないので、人を頼んだということなのでしょう。このあと道長は乱行をおこなった事が明らかになった雑人一人を逮捕するように命じています。ここに明確に「うはなりうち」という言葉が出てきます。かなり乱暴なことをしたのでしょう。
貴族の日記では、少しあとのことになりますが、『台記』(藤原頼長の日記)の康治二年(1143)十一月七日条にも「進士宗広妾[名児]上成打」という記録があります。宗広という男の妾が「うはなりうち」をしたという記録です。
                      (明日に続く)

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