うはなりうち(4) 

一方の葵の上は、出産間近で苦しんでいます。当時はこういう時に生霊、死霊などが産婦を苦しめると考えられており、その霊となるのはたとえば産婦の一家のために没落の憂き目を見た人物などです。その霊を追い払うために僧が招かれ、祈禱をおこないます。そのときには芥子を焚きます。産婦に取り憑いている霊を憑坐(よりまし)というおもに若い女性に乗り移らせ、祈禱して退散させるのです。
今考えると、出産しようという人の近くで僧侶が頭から湯気を出して祈禱なんてされたらうるさくて仕方がない(笑)かもしれませんが、当時はこれが当たり前だったのです。
この時も盛んに祈禱がおこなわれ、多くの霊を追い出したのですが、どうしてもなにものか分からない霊が取り憑いて離れません。僧侶との一騎打ちのようなものです。すると「しばらく祈禱を緩めてください。光源氏の君に

    お話ししたい

ことがあります」と葵の上が言うのです。何だろうと思って光源氏がそばによると、その声は実は葵の上ではありませんでした。もうお分かりだと思いますが、六条御息所の声だったのです。つまりしつこく取り憑いて離れなかった霊は彼女の生霊だったのです。六条御息所が夢に見ていたのは、彼女の魂が遊離して葵の上を襲っていたことだったのです。光源氏はその声の主がわかりました。さすがに愕然としたことでしょう。六条御息所もまた自分の心の内を光源氏に知られることになってしまったのです。
このあと、葵の上は無事に男子(「夕霧」と呼ばれます)を出産します。光源氏はこの時に至って

    はじめて

葵の上を愛しく思い、葵の上もまた若い夫のことを心底から愛する気持ちを抱きます。ところが、まもなく光源氏が内裏に行っている隙に葵の上は急激な胸の苦しみを覚えたかと思うと急逝してしまいます。何とも凄まじい話です。それにしても作者の女性心理の深みを描く筆はすばらしいものだと思います。

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この話を『源氏物語』や『伊勢物語』などの古典に取材した能の作者が見逃すはずがありません。

    謡曲「葵上」

をご紹介しておきます。
この能はシテ(主人公)が六条御息所で、葵の上は登場せず、舞台に置かれた装束が葵の上の存在を示しています。
六条御息所の霊が葵の上(の衣装)の前に現れます。そして「我、人のためにつらければ、我、人のためにつらければ、必ず身にも報ふなり。何を嘆くぞ葛の葉の恨みはさらに尽きすまじ。恨みはさらに尽きすまじ。あら恨めしや今は打たではかなひ候ふまじ」(私はあなたのせいでつらい目に遭っているのだから、あなたにもその報いがあるのです。何を嘆くことがありましょう、恨みは尽きることがないのです。ああ、うらめしい、今はあなたを打たないではいられない)というのです。
すると巫(みこ)が「あらあさましや、六条の御息所ほどの御身にて後妻打ちの御振舞。いかでさること候ふべき。ただおぼしめし留まりたまへ」(ああ、あきれたこと。六条御息所ほどのかたが「うはなりうち」のお振舞をなさるなんて。どうしてそんなことがあってよいものでしょう。どうか思いとどまってください)と制止しようとします。六条御息所の霊はそれに対して「いや、いかに思ふとも、今は打たでは叶ふまじ」(いや、あなたがどう思うと今は打たないではいられない)といって枕元によって葵の上を打つのです。
このあと祈祷僧との対決になり、あれほど嫉妬の炎を燃やした六条御息所でしたが、ついには祈禱の力に負けて去っていきます。
その時の六条御息所の面は

    般若

です。この面は角を生やして口は裂けていて、なんとも恐ろしい顔をしていますが、よく見ると目元などとても切なく悲しそうです。女性の嫉妬と悲しみを表現するには実によくできた面だと思います。
「般若」の面というと、謡曲「鉄輪」も思い出します。嫉妬に苦しむ女性が五徳(鉄輪)を逆さまにして頭に着け、いわゆる「丑の刻参り」をします。ここは「いでいで、命を取らむ、命をとらむと笞(しもと)を振り上げ、うはなりの髪を手にからまいて、打つや宇津の山の夢うつつともわかざる憂き世に、因果は廻りあひたり」(さあさあ、命を取ろう、命を取ろうと笞を振り上げて、うはなりの髪を手に絡ませて打値続ける。夢か現かも分からないほどつらい世の中で因果と言うものがめぐり遭うのである)と描かれる場面です。
                    (明日に続く)

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