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うはなりうち(5) 

「こなみ」が「うはなり」を妬む気持ちは『古事記』の時代からあるもので、その後は文学のテーマになることもあり、また平安時代の貴族の日記には実際に起こった「うはなりうち」の記録もありました。
それではその後の「うはなりうち」はやはり同じように続いていったのでしょうか、あるいはなんらかの変化を遂げることになるのでしょうか。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」というと1716年頃に書かれたという

    『葉隠』(はがくれ)

の有名な一節です。この言葉は、武士=切腹のような単純な話ではありませんが、ここではテーマが違いますのでこれ以上のことは書きません。
佐賀藩の山本常朝(やまもとつねとも)の話を田代陣異(つねもと)が筆記したというこの書物の中に、「うはなりうち」が出てくるのです。
「(鍋島)直茂公、最前の御前様、御離別以後うわなり打に折々御出候へども、陽泰院様御とり持ち御丁寧に候ふ故、納得候ひて御帰り候ふ事度々にて候ふよし」(『葉隠』第三)
(鍋島直茂公の前の奥様が離別なさったあと、「うはなりうち」に何度かおいでになったけれども、(新しい奥様である)陽泰院様が、おとりなしがとてもご丁寧ですので、納得してお帰りになることがたびたびであるということです)
佐賀のことですので、どこまで一般化できるかは分かりませんが、江戸時代の奥方でもまだこのような「うはなりうち」があり得たようです。実際どのようなことをしたのかは分かりませんが、やはり暴力に訴えようとしたのでしょう。しかしこのときは新しい奥さん、つまり「うはなり」の

    対応がうまかった

ので事なきを得たという話です。対応がうまかったというのは実際にどのようなことをしたのでしょうか。これはまったくの想像なのですが、ただ単に言葉巧みに切り抜けたということではなく、たとえば金品が贈られるようなことがあったのではないでしょうか。もっと史料を探さないとこれ以上のことはいえないのですが。

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享保十七年(1732)またはその翌年に書かれた随筆に

    『昔々物語』(むかしむかしものがたり)

があります。その中に「相当打(さうたううち)」の話が出てくるのですが、これはまさに「うはなりうち」に当たるものだと思われます。『昔々物語』では、いかにご紹介する話が実際にあったのは120〜130年前のことだと言っていますので、江戸時代のごく初期のことになります。現代文でご紹介します。
「昔は、妻を離別してその月のうちに再婚すると、元の妻が親類縁者から若く達者な女を選び、新妻に「御覚悟可有之候、相当打何月何日可参候」と告げることがあった。木刀や棒は危険なのでたいていは竹刀。新妻側は「何分にも御詫言可申」と詫びたり「御尤相心得、相待可申條、何月何日何時待入候」と迎え撃つ者もあった。当日は元の妻は乗り物に乗り、他の女は歩き、括り袴をはいて、たすきをかけ、かぶり物や鉢巻きをして押し寄せる。門を開けさせて台所から入り、

    手当り次第に

壊す。適当な頃に、新妻の仲人と侍女郎(新郎の家の門で新婦を迎えて家の中に入れて世話をする役の女)が元の妻の侍女郎と話した上で帰る。相当打の加勢は何度も頼まれるもので、約七十年前に八十歳ほどの老婆が「若い頃に十六度頼まれた」といっていた」(「昔々物語」)

「御覚悟可有之候、相当打何月何日可参候(御覚悟これ有るべく候ふ、相当打、何月何日参るべく候ふ)」というのは「お覚悟なさってください。相当打として何月何日に参上致します」というようなことでしょうから、いわば「果たし状」ですね。すると新しい妻は「何分にも御詫言可申(何分にも御詫び言申すべし)」といって平身低頭、御詫びしますという者もあれば、「御尤相心得、相待可申條、何月何日何時待入候(ごもっともと相心得、相待ち申すべき条、何月何日何時待ち入れ候ふ)」といって、何月何日のいつごろに来てください、と受け入れるものもありました。そして「こなみ」の側が若くて喧嘩の強そうな「女」を連れてやってくるのです。平安時代の藤原道長の日記に書かれていた「うはなりうち」が男性の力を借りていたのに対して、ここでは「女」だけが突入していることに注意しておきます。しかも突入場所は台所なのです。
                        (明日に続く)

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