源氏物語逍遥ーいときなき初元結(その1) 

今年から連載させていただいている『源氏物語』のエッセーも3回目が公になりました。
小さな雑誌ですのでお目に留まることはまずないと思います。そこで今回もここに転載することにしました。

 いかなる武士、仇敵でも、その姿を見ると自然と微笑んでしまう。桐壺帝の若宮(光源氏)はそんな美しい少年に成長して行きます。その美質を表す言葉として「清ら」という語が用いられますが、これは気品があって華麗な一級の美を示す語で、類義語の「清げ」が表面的な美しさを言うのと区別されます。『源氏物語』「浮舟」では浮舟(宇治八宮の娘)の目を通して、薫(光源氏の子。実は柏木と女三宮の密通で産まれた)を「清げ」、匂宮(光源氏の孫)を「清ら」と表現する場面があります。
 そんな光源氏の処遇は桐壺帝にとって難しい問題でした。いかに美しく聡明でも、弘徽殿女御所生の兄宮がいますから、春宮(とうぐう。東宮)にするわけにはいかなかったのです。当時は必ずしも

    長男が後継者

と決まったわけではなく、惟喬、広平、敦康親王も、それぞれ文徳、村上、一条天皇の第一皇子でありながら春宮にならないまま終わりました。しかしそれは母方の後見が弱かったからであり、まるで事情が異なります。光源氏の母の桐壺更衣は亡き大納言の娘で、更衣自身もすでに故人となりました。一方の兄宮は右大臣の娘を母とし、しかも祖父右大臣、母女御ともに健在なのです。
 春宮を決めるときの桐壺帝は、
  御後見すべき人もなく、また世の承け引くまじきこ
  となりければ、なかなか危く思しはばかりて、色に
  も出ださせたまはずなりぬるを
  (後見人となる方もなく、また世間が承知するはず
  もないので、かえって危険だと自重なさって、顔色
  にもお出しにならないままであったので)
という様子で、父としての本音を胸の奥に秘めて、苦渋の決断をおくびにも出さない分別を見せたのでした。

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内裏での生活にも馴れた頃、光源氏は六歳で母方の祖母を失います。もはや父帝以外頼る者もなくなった彼は七歳から学問を始め、その能力は驚異的ですらありました。学問以外にも管絃その他万事にすぐれていたのですが、はるか後の「若菜下」巻で、四十七歳になった光源氏は「幼い頃から、知らないことはないように、と思って

    何でも積極的に

学んだ」と回想しています。その早熟の理由は才能だけに帰するのではなく、父帝の督励と彼自身の強い意志や努力の賜物だったのです。
 そんな非凡な少年を見た父帝は、たまたま来朝していた高麗人の相人に観相させることにして、七条朱雀にあった鴻臚館に遣わしました。すると相人は、
  国の親となりて帝王の上なき位に昇るべき相おはし
  ます人の、そなたにて見れば乱れ憂ふることやあら
  む。おほやけのかためとなりて天の下を輔(たす)
  くる方にて見れば、またその相違ふべし。
  (国の親となって帝王という最上の地位に昇る相を
  お持ちですが、その観点から占うと乱れ憂うること
  があるかもしれず、朝廷の重鎮となって輔佐すると
  いう方から占うとまたその相ではないようです)
と言うのです。すでに試みていた日本流の観相と合致するため、帝はこのまま放置して外戚を持たない無品親王(位の無い親王)で終わらせるのはよくないと判断します。そして宿曜道(星による占い)の意見も勘案した上で臣下に列して源氏とすることを決めた帝は「いよいよ道々の才を習はさせたまふ」のです。どこまでも学芸を重要視する考え方は、後に光源氏が息子の夕霧に厳しく学問をさせた(少女巻)ことにも通ずるでしょう。

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