『源氏物語』逍遥(四)ーあふさきるさにー(その3) 

 そこにやってきたのがこれまた色好みで知られる左馬頭と藤式部丞で、このあと中流女性を軸にして「雨夜の品定め」が本格化します。しかし肝腎の光源氏はというと、聴き手に終始するのです。つまり彼はこの中流女性論を受け止めることで未知の世界を知り、それは後日の「実践」の糧(かて)となるのです。よって、左馬頭を中心とする論者の見解は物語の展開(光源氏と中流女性との関係の実現)に重要な役割を果たすことになります。彼らの話に耳を傾けてみましょう。
「中流といってもさまざまで、もともと高貴な家柄でありながら没落した人、受領という地方官レベルながらまんざらでもない人、上達部に至らなくても世評も家柄も悪くない人などがいて、そういう人が大事にしている娘が宮仕えをして思わぬ幸運を得ることもある」。
光源氏がのちに出会う末摘花(没落した宮家の娘)や空蝉(地方官の妻)、明石の君(田舎育ちの幸運な人)などが思い合わされなくもありません。「人に知られず荒れ果てた家に思いがけず『らうたげならむ(いじらしい)』人が閉じ込められているのは心が惹かれる。年老いた父親が見苦しく太っていて、兄弟も美男とは言いがたいのに、技芸などのすぐれた女性がいるのもいいものだ」。
シンデレラのような「哀れなヒロイン」の話ですが、後に登場する夕(ゆう)顔(がお)や末摘花あるいは紫の上との出会いはこれに近いかも知れません。
 最初は質問したり冗談を言ったりしていた(しかし意見は言わなかった)光源氏は、このあとも思いめぐらすことはあっても何も言わずに聴いています。
「一家の主婦となる者には不可欠な要素が数多くある」と言い出した左馬頭は
  とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさて
  もありぬべき人の少なきを
  (こうだと思うと実はあのようであり、食い違いば
  かりで、不十分ながらも何とかやっていける人は少
  ないので……)
と述べ、「だから浮気心に任せて多くの女性を見比べてえり好みをするようになるのだ」と続けます。ところで、ここには引き歌があります。
  そゑにとてとすればかかりかくすればあないひ知ら
  ずあふさきるさに     (『古今和歌集』雑躰)
  (だからといってそうすればこうだし、ああすればこうなるし……ああわけがわからない、食い違うばかりで)
「そゑに」は「其(そ)ゆゑに」のことで「合ふさ切るさ」は「一方が合うと他方が切れるような食い違い」のことです。この歌は『古今和歌集』では「誹諧歌」に分類されているのですが、いかにも卑俗で滑稽味すら感じさせる歌です。ああ言えばこうだし、こう言えばまた違うし、「あないひ知らず」は「もうどうでもいい」とやけっぱちになっているようです。そして「あふさきるさ」もいかにも「めんどうくさい」という口調です。左馬頭がここであえて引き歌を用いたのは、そんな「舌打ちでもしたいようないらだち」を伝えたかったのかもしれません。引き歌というのはそんなプラスアルファの効果を持つようです。

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