文学無用の時代(1) 

国文学なんて役に立たない学問など今の時代には無用のものである。コソコソとそんなことを言われているような気がして、仕事場でも肩身が狭いのです。いや、ほんとうは胸を張っているのですが、肩身が狭いと嘆くような顔をしているのです。それは違うよ、と言いたいために。
先日、文楽四月公演『菅原伝授手習鑑』の、また今年から実施する予定の講座「王朝の歌人たち」の予習のために

     藤原克己『菅原道真』(ウェッジ選書)

を読んでいました。藤原先生は知識も見識も私など足元にも及ばない大変すぐれた平安時代文学研究者で、特に菅原道真についての研究で知られ、『菅原道真と平安朝漢文学』というご著書もあります。
私は以前研究会でご一緒させていただいたことがあり、その時に驚嘆するような偉大な先生だと思ったものですが、同時にお人柄にも感じ入りました。これだけの方なのに、まったく偉そうにされない、謙虚で穏やかで円満な先生です。
その大先生が15年前に一般向けに書かれたのが『菅原道真』です。私はこの本の

    「はじめに」

にまず感銘を受けました。ここには藤原先生の、どうしてもこの本を書かないわけにはいかなかった強い思いが記されています。本文も重厚なものですが、この「はじめに」を読むだけでも価値があると思うくらいです。
以下に申し上げるのはこの「はじめに」を中心として藤原先生のお教えに導かれてのものです(藤原先生のおっしゃることそのままとは限りません)。

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9世紀初めの嵯峨天皇は平安時代の基盤を整えた天皇として政治史上でも忘れられない人ですが、同時に漢詩人、書家としてすぐれていました。中国ではすぐれた政治家というのは同時に文人である必要がありましたが、日本でもこの時期は同じような考えがあって、天皇のみならず天皇近臣の高級官僚たちも盛んに漢詩を詠んだのです。藤原冬嗣や小野岑守などがその代表でしょう。そして道真の祖父である

     菅原清公(すがわらのきよぎみ)

も、勅撰漢詩集の撰者を務めたこの時代のすぐれた詩人でした。「文章は経国の大業」(『文選』)という時代でした。
ところが、仕事はできるが文学はダメ、家柄はいいが文才はない、という人もいたでしょう。特に高官クラスにそういう人がいると自らのコンプレックスもあって、実務こそ第一という建前で、詩など詠んでも仕方がない、というか、文学と政治は別のものという考えが起こったようです。

    詩人無用論

です。菅原道真の同時代人に「田氏家集」(でんしかしゅう)を残した島田忠臣(しまだのただおみ)がいます。この詩集の中に「春日仮景、同門の友人を訪ふ」という詩があり、そこには「儒者はあげつらふ、詩は無用なり、と」という一節があります。官人たちは詩なんて役に立たない、とふそぶいているというのです。
なんだか、今の時代と重なるものがないでしょうか。

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