和歌を詠もう(1) 

以前連載をさせていただいていた短歌の雑誌が、同人の高齢化などが原因で歌誌の刊行を半分に減らしたそうです。
同人が高齢化するということは、どうしても人数が減り、雑誌を経済的に維持できなくなってくるのです。
やはり短歌など今どき流行らないのでしょうか。
もちろん若い人でも短歌を詠む人はいますが、一般的に言って隆盛を誇っているとは言いがたいように思います。
また、短歌作品自体も、最近はあまり感傷的なものではなく、

    明るい笑いの要素

の強いものも多くなってきたように思います。
それはそれでもちろんかまわないのですが、あまりに同じようなものが増えるのはどんなものかと思うことがあります。
新聞に載る短歌では、社会派の短歌というか、

    時事短歌

といえばいいのか、そういうものも多いように見受けられます。
短歌が多様化していくのは当然かもしれませんが、私はそちらのほうには行きたくないというスタンスなのです。
単純にそのときの悲しみや寂しさ、時に喜びやうれしさが詠めればいい、という程度で、やはりこんなふうに旧態に閉じこもっていては上達もしないのかもしれません。

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『古今和歌集』の撰者で10世紀前半に活躍した紀貫之は、その『古今和歌集』の序文の冒頭で

    やまとうたは、ひとの心をたねとして
    よろづの言の葉とぞなれりける

と言いました。
「種」は人の心、それが葉となって「言葉」に成長します。
どう育てて、どんな花や葉になるのかはそれぞれです。歌の数ほど多くの種類の葉が出るのでしょう。
ただ、種となるのはやはり心です。自分の心に素直に短歌を読み続けられたらいいだろうな、と思っています。
こういうことを考えている時点で

    浮世離れ

していることになるのかもしれませんが、いまさらあまり浮世に戻りたいとも思っていませんので、このペースで読み続けたいと思っています。


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