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源氏物語「蓬生(よもぎふ)」(3) 

『源氏物語』で夏の似合う女性というと花散里です。のちに六条院の夏の町に住むこともそうなのですが、実は彼女が物語に顔を出す季節は夏が多いのです。彼女が最初に登場する「花散里」巻は五月雨の晴れ間のころでした。そもそも「花散里」ということばは「橘の花が散る里」という意味ですからまさに夏の人なのです。
光源氏二十九歳の初夏、四月のことです。数日来雨が降り続いたあとで、まだ少し降っているのですが、やがて月も出てきました。光源氏は花散里を訪ねようと出かけるのです。そのとき、ひどく荒れた屋敷の前を通りかかります。
この、別の女性のところに行こうとしたときに荒れた屋敷に出会うという形は、「若紫」巻で光源氏が六条の女性(六条御息所を思わせる)のところに出かけようとしたときに、
  荒れたる家の、木立いともの古りて、木暗う見えたるあり
と、北山の尼君(紫の上の祖母)の暮らす家を見つける場面とも似ているように思えます。このときはこの邸にまだ幼い若紫(後の紫の上)がいましたので、このたびもまた魅力的な人のお屋敷なのでしょうか。

形(かた)もなく荒れたる家の、木立(こだち)茂く森のやうなるを過ぎたまふ。大きなる松に藤の咲きかかりて月影になよびたる、風につきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなき香りなり。橘にかはりてをかしければ、さし出でたまへるに、柳もいたうしだりて、築地(ついひぢ)もさはらねば、乱れ伏したり。

見るかげもなく荒れた家で、木が茂って森のようなところを通り過ぎられる。大きな松に藤が咲いてまとわりつき、月の光の中でなよなよとしているのだが、それが風に乗ってさっと匂って来るのが好ましくて、ほのかな香りがする。橘とは違った趣があるので、車から顔をお出しになると、柳もたいそう長く垂れて築地も邪魔にならないので乱れかぶさっている。

初夏の雰囲気のよく表れた描写ですね。松に藤がまとわりついて咲くのは初夏の風物として愛されました。『枕草子』「めでたきもの」の段にも「色あひ深く花房長く咲きたる藤の花、松にかかりたる」とあります。その藤の香りが風に乗ってくるのです。その次に「橘にかはりて」とありますが、これはおそらく花散里のイメージなのでしょう。前述のように「花散里」の呼び名は橘の花と関わりがあるわけで、「花散里と言えば橘だが、それとはまた違った風情がある藤の香りだ」という気持ちになって光源氏は車から顔を出すのです。築地(土塀)が邪魔にならないのは、崩れているからです。それほどにみすぼらしい屋敷なのです。『枕草子』「人にあなづらるるもの(人にばかにされるもの)」の段にも「築地の崩れ」がその代表として挙げられています。

車から顔を出した光源氏は、この屋敷に見覚えがあると思うのですが、それもそのはず、ここは末摘花の屋敷だったのです。光源氏はさっそく惟光に命じて末摘花が今もここにいるかを尋ねさせます。惟光が邸内に入って様子をうかがうのですが人のいる様子がありません。やはり誰もいないのだ、と思った惟光が帰ろうとしたとき、月の光が明るく射したので改めて見直すと人がいるようです。惟光は人がいることが不気味に感じられたのですが、ともかく咳払いをして名を名乗り、「侍従に会いたい」と言います。「侍従はここにはいませんが、同じように思っていただいてよい者がおります」と答えるその声は確かに聞き覚えのあるものでした。

内には思ひもよらず、狩衣姿なる男、忍びやかに、もてなしなごやかなれば、見ならはずなりにける目にて、もし狐などの変化(へんげ)にやとおぼゆれど、近う寄りて「たしかになむ承らまほしき。変はらぬ御ありさまならば、たづねきこえさせたまふべき御心ざしも絶えずなむおはしますめるかし。今宵も行きすぎがてにとまらせたまへるを、いかが聞こえさせむ。うしろやすくを」と言へば、女どもうち笑ひて「変はらせたまふ御ありさまならば、かかる浅茅(あさぢ)が原をうつろひたまはでは侍りなむや。ただ推し量りて聞こえさせたまへかし。年経たる人の心にもたぐひあらじとのみめづらかなる世をこそは見たてまつり過ごし侍る」と、ややくづし出でて問はず語りもしつべきがむつかしければ、「よし、よし、まづはかくなむ聞こえさせむ」とて参りぬ。

邸内では、思いがけずも狩衣姿の男が人目を避けるようにして、物腰も柔らかな様子なので、すっかりこういう人を見馴れなくなってしまった目には、ひょっとして狐などの化けたものではないかと思われるのだが、近くによって「たしかなことを承りたいのだ。昔と変わらないありさまでいらっしゃるなら、お訪ね申し上げなさろうというお気持ちも、常にお持ちのようなのだよ。今夜も通り過ぎにくくお思いになってとどまりなさったのだが、どのように申し上げようか。安心しておっしゃってください」と言うので、女たちは少し声を立てて笑って「お変わりになっていらっしゃるのであれば、このような浅茅の生い茂ったところをお移りにならずにいらっしゃるものでございましょうか。ただご推量の上で申し上げなさってくださいな。年老いた私の気持ちとしましても、ただもう類がないだろうと思われるお暮らしを拝見して過ごしているのです」と、話し出して、問わず語りも始めそうなのが厄介なので「わかった、わかった、まずはこのようなことですと申し上げよう」といって源氏のところに参った。

惟光の訪問に対する老女房の反応がおもしろいです。狩衣姿の男なんて、まず見ないので狐ではないかしらと疑っています。いかに世離れしているかがよくわかります。この巻の初めに、この屋敷の様子を「もとより荒れたりし宮の内、いとど狐の住み処になりて」とありましたが、まさにそのとおりに女房は感じたのです。惟光が「光源氏は今もお忘れにはなっていない」とやや粉飾気味の答えをすると、女房たちは「うち笑ひて」と声をあげるのです。この「笑ひ」はどういう笑いでしょうか。狐の変化どころか、あの光源氏の家司(けいし)である惟光が、まちがいなく光源氏の思いを伝えているのだと知って、安堵と喜びのあまりにお互い顔を見合わせて「よかった!」と笑ったのでしょう。唐突なのですが、私はこの場面から『伴大納言絵巻』の一場面を思い出しました。放火の疑いを掛けられた左大臣源信(みなもとのまこと)が無実であるとの吉報が伝わり、女房たちが喜び合う場面があるのです。手を打つ者あり、天を仰ぐ者あり、おそらく誰もが喜びの声をあげていると思われる場面です。

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↑伴大納言絵巻 中巻

老女房は、いかにみじめな暮らしをしてきたかを語りだします。問わず語りを始められては収拾がつかないと思った惟光は光源氏に事情を話しに行きました。講座に出てくださっている方は、『橋姫』巻で、薫が話し相手にしていた弁の君という老女房のことを「年寄りだから問わず語りをしかねない」と言っていたことを覚えていらっしゃるでしょうか。どうも高齢になると問わず語り癖が出ると思われていたようですね。
なお、この老女房はあの大宰府に行ってしまった侍従の叔母の「少将」という女房でした。
惟光が光源氏に事情を話すと光源氏は「どうしたものだろう、こういう機会でもないと立ち寄ることはできないだろうが、それにしても入りにくい家だ」と躊躇するのです。惟光は、「蓬の露けさが足を踏み入れられないようなありさまですから、露を払わせてからお入りください」と言います。光源氏は「たづねてもわれこそ問はめ道もなく深き蓬のもとの心を(尋ね求めてでも私は訪問しよう。道もなく、深く茂った蓬の家の昔に変わらぬ心なのだから)」と独り言のように口ずさんでから車から降りるのです。入ろうかな、どうしようかな、と思う心を自ら奮い立たせるような歌のように見えます。喜んではいる、という感じではないのですね。
惟光が馬の鞭で露を払い、そのあとに光源氏が続いて入って行きます。
この場面は『源氏物語絵巻』に描かれ、今も徳川美術館に伝わっています。

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↑源氏物語絵巻蓬生

この絵は右端に老女房の姿が描かれ、御簾などもかなり古びています。老女の顔はいかにもやせこけた様子です。簀子はところどころ壊れていて、よく見ると草まで生えています。修理する者もいないのでしょう。そして画面左端には対照的な人物として光源氏の姿があり、その前を惟光が鞭で露を払っている様子が描かれています。光源氏には褄折傘(つまおりがさ)がさしかけられていますが、これを持っているのは彼の後ろにいるはずの供の者です。左上に藤の花のかかった松の木があるのですが、その葉から雨の雫が落ちるのを避けるためでしょう。顔料がすっかり落ちていて、全画面セピア色に見えますが、加藤純子さんによる模写によると、画面右半分はセピアのような感じなのですが、光源氏と惟光のすがたはさすがに優美です。そしてその両者の間には庭の草がめいっぱい描かれています。なお、加藤さんの模写は著作権が気になりますので、このブログには上げません。
庭は本来緑青で描かれているのです。光源氏の装束は烏帽子直衣。惟光は狩衣です。露を払う惟光はもちろん、光源氏の視線も下を向いていることから、荒れ果てた庭をかろうじて歩んでいく様子が感じられるでしょう。この日は、雨のあと月が差し込んでいるのですが、それは末摘花の「雨」のようなつらい生活に光源氏という「月」が訪れることの象徴のようでもあります。

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土佐光吉ほか『源氏物語画帖』「蓬生」

この絵では、松にかかる藤や雲間の月なども見えます。

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コメント

蓬生3

蓬生3を声を出して読みました。
新型コロナで引き篭りの日々には
嬉しいブログです。今回は国宝の
模写の絵巻物が載っていました。
蓬生で足の踏み場がない様子が
惟光が持ってる馬の鞭で良く理解出来ます。
次回は久方のご対面が楽しみです

  • [2020/05/07 15:59]
  • URL |
  • ふじしろ小侍従
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わたしも80台の老女です。
問わず語りを長々として
人に嫌がられないように気を付けたいです。

  • [2020/05/07 16:06]
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  • ふじしろ小侍従
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♫ふじしろ小侍従さま

簀子がぼろぼろになっているのがとても強い印象を与えますね。
見事な絵で、一度観たら忘れられません。

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