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源氏物語「蓬生(よもぎふ)」(4) 

末摘花は着るものとてろくなものではないのですが、あの叔母の大弐の北の方がくれたもので、これまでは毛嫌いして着ていなかったものがあったのに仕方なく着替えて几帳越しに対面します。

入りたまひて「年ごろの隔てにも心ばかり変はらずなむ思ひやりきこえつるを、さしもおどろかいたまはぬ恨めしさに、今まで試みきこえつるを、杉ならぬ木立のしるさに、え過ぎでなむ負けきこえにける」とて、帷子をすこしかきやりたまへれば、例の、いとつつましげに、とみにもいらへきこえたまはず。かくばかり分け入りたまへるが浅からぬに、思ひおこしてぞほのかに聞こえ出でたまひける。

光源氏はお入りになって、「長年のお心の隔てに対しても、心だけは変わらず思いを馳せておりましたがとくにお便りもくださらないのが恨めしくて今まであなたのお気持ちをお試ししていたのですが、三輪の杉ではありませんが木立がはっきりと見えましたので、通り過ぎることもできずに、あなたに負けてしまいました」といって几帳の帷子を少しかきやりなさると、いつものようにとても遠慮深いようすで、すぐにもお返事は申し上げなさらない。こうして露の中をかき分けてお入りなったお心が浅からぬものなので、気持ちを奮い立たせてわずかに言葉をお出しになるのであった。

また光源氏はこんなうまいことを言っています。あなたが何も言ってこないからこれまではあなたの気持ちを確かめるためにお訪ねしなかったのです。でも今日は木立を見て我慢ならずやってきたのです、って、よくもまあ、こんなことが言えるものです。しかし、こういう言い方をして相手を立てようとする、男女間の礼儀でもあったのでしょう。文中に「杉ならぬ木立」とありましたが、ここに引き歌があるのはおわかりでしょうか。「わが庵(いほ)は三輪の山もと恋しくはとぶらひきませ杉立てる門(かど)」(古今和歌集・雑下・よみびと知らず)という有名な歌があります。私の庵は三輪山の麓です。恋しく思ってくださるなら訪ねてきてください。杉の立っている門を、という歌で、『古今和歌集』では「恋」の部ではなく「雑」の部に入ることからも、本来この歌は三輪山の麓に隠棲した人が詠んだものと思われます。しかし、のちには恋しい人のいる家の目印として「しるしの杉」ということばが定着します。さらに後世には三輪明神の歌とされて、三輪山伝説とともに語られるようになります。ちなみに、『古今和歌集』ではこの歌の次に「わが庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」の歌が収められています。
光源氏の言葉は続きます。

「かかる草隠れに過ぐしたまひける年月のあはれもおろかならず、また変はらぬ心ならひに、人の御心のうちもたどり知らずながら、分け入りはべりつる露けさなどをいかが思す。年ごろのおこたり、はた、なべての世に思し許すらむ。今より後の御心にかなはざらむなむ言ひしにたがふ罪も負ふべき」など、さしも思されぬことも、なさけなさけしう聞こえなしたまふことどもあんめり

「長い年月このような草深いところにお暮らしだったことのおいたわしいことは並大抵ではありません。また一方、心変わりしないという私の性癖から、あなたのお心も知らないままに、こうして露を分けて入ってきた私の気持ちをどうお思いになりますか。長らくご無沙汰したのはどなたも同じことなので、あなたはお許しくださるでしょう。今後、御心に叶わぬようなことがあればお約束を違えた罪を負いましょう」などと、ほんとうはそこまで思ってもいらっしゃらないことをも、いかにも情け深いかのようにうまく申し上げなさることがあれこれあるようだ。

あなたもお気の毒だったが、私がわざわざやってきた気持ちは理解してほしい、長らくお訪ねしなかったのはどなたも同じなのだ、今後はあなたの御心に添うようにしましょう、というのですが、最後に作者は皮肉っぽく光源氏の口のうまさを書き添えています。いわゆる草子地(そうしじ)ですね。
光源氏はこのまま今夜は泊まるのかというとそうではありません。どう考えてもこの屋敷には目をそむけたくなるのです。
  藤波のうち過ぎがたく見えつるは
    まつこそ宿のしるしなりけれ
光源氏の歌です。藤が通り過ぎがたく見えたのは、その藤がかかっている松が、私を待つというこの家のしるしだったのですね。
もちろん、最後の「松がこの家の印だ」という部分は前掲の「わが庵は三輪の山もと」の歌が響いています。
光源氏は「またそのうちに『鄙の別れに衰えた』ころのお話もしましょう、あなたもご苦労話を私以外に話す人はいないでしょう」と付け加えました。「鄙の別れに衰えた」というのは「思ひきや鄙の別れに衰へて海人(あま)の縄たき漁(いざ)りせむとは」(古今集・雑下・小野篁)によります。この篁の歌は隠岐に流されたときのもので、「思いもよらなかった、人と別れて田舎暮らしでおちぶれて、海人として釣り縄を操って漁をするようになろうとは」という意味です。
末摘花はそれに対して
  年を経てまつしるしなきわが宿を
    花のたよりにすぎぬばかりか
長い年月を経てあなたさまをお待ちしたかいもない私の家を花のついでに立ち寄られただけですか、と返しました。
明るい月が差し込むために家の中が見えるのですが、光源氏はそれを見て、荒れた外回りに比べて風雅を保っていることに感心します。自分もこの人もつらい日々を送ったのだと思うと、共感も覚えます。かねてから末摘花の魅力だと思ってきた奥ゆかしいところは今も変わりなく、よけいにいじらしい気持ちにもなるのです。
もし、あの「末摘花」巻の滑稽とさえいえる描写を思い出さなかったら、この再会の場面はなかなかいい感じではないでしょうか。
確かに、前回読みましたように、作者は末摘花の悲嘆の日々を描くに際して「山人の赤き木の実ひとつを顔に放たぬ」などと、彼女の容貌の醜さを描きました。
しかしここではむしろ、叔母に嫌がらせを受けつつも、苦しい生活にじっと耐えてきた、上品で奥ゆかしいシンデレラ(は、言い過ぎかも・・)のような姫君の姿すら浮かんできます。光源氏自身が感じているように、ふたりとも離れ離れではありながら、悲劇的な時間を共有してきたのです。今こうして荒れ果てた屋敷に同座して、この人を見棄てるわけにはいかない、という気持ちが強まったのではないかと思われます。
花散里という人も、容貌という点ではほかの女性たちに劣るのです。それでも光源氏は彼女を頼りにして夕霧の親代わりとして六条院の夏の町に住まわせるほどの待遇をしました。末摘花はそこまではいかないにしても、その古めかしさや容貌の醜さをからかわれていた「末摘花」巻とは異なった、新しい光源氏との関係が成立するように感じられるのですが、皆さまはいかがお感じでしょうか。
このあと、光源氏は人を遣わして末摘花の屋敷を修理させ、庭もきれいに手入れさせました。「近く、あなたのお住まいを作らせるので、女童などをお探しになっておかれよ」とまで言ってもらって、末摘花の女房たちは感激で光源氏の屋敷の方を拝むのでした。こうなると人の心は現金なものです。かつて末摘花を見限った女房たちも、われさきにと戻ってくるのです。末摘花は二年ばかりこの屋敷にいた後、二条院の東に建てられた屋敷(二条東院)に移りました。光源氏は対面することはなかったのですが、それでも何かの折にはこちらに顔を出したりもして、それなりの扱いをするのです。あの大弐の妻(末摘花の叔母)が都に戻ってびっくりしたこと、乳母子の侍従がもう少し我慢すべきだったと反省していることなどを付記して、「蓬生」巻は閉じられます。

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コメント

蓬生4を読んで

以前の末摘花の容貌を紫式部はここまで書くか?と思う位に酷い表現をしていました。蓬生では容貌については触れていません。
女房達は現金そのもので途端に舞い戻ってくるのは浅ましいです。
末摘花は以前よりしっかりして、
花を見るために通ったのかしら?
以前には考えられない事をしっかりと伝えています。源氏も須磨へながされて苦労をしていますし、末摘花をほおっておいた三年の月日のながさを感じます。

  • [2020/05/11 18:35]
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  • ふじしろ小侍従
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♫ふじしろ小侍従さま

源氏物語は人間の浅はかさを描いて妙だと感じます。浅はかな脇役たちを列挙してもおもしろいかもしれませんね。

ちゃっかりと自分勝手な考えの人を"げんきんな人"と言います。
このコメントで現金と書きましたが
誤字のように思います。
漢字を使うとどうなりますか?
この機会に教えて下さい。

  • [2020/05/12 13:26]
  • URL |
  • ふじしろ小侍従
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♫ふじしろ小侍従さま

ゲンキンは現金で正解です。
江戸時代の上方なら現銀でしょうか。上方では銀が主要通貨でしたから。
現金なら、どんなものにもすぐに対応できるので、ころころと対応が変わる人を現金な人というのだと思います。

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