源氏物語「関屋(せきや)」
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『源氏物語』には「空蝉」「篝火」「花散里」など、とても短い巻があります。「蓬生」巻に続く「関屋」巻もそのひとつです。
光源氏は若き日に中流階級の女性に関心を持ち、空蝉、夕顔、末摘花らに接近しましたが、さまざまな理由でそれらの恋愛は頓挫しました。そのうち、「蓬生」巻では末摘花の後日談が描かれたのですが、この「関屋」巻に登場するのは空蝉です。
伊予介といひしは、故院隠れさせたまひてまたの年、常陸になりて下りしかば、帚木(ははきぎ)もいざなはれにけり。須磨の御旅居もはるかに聞きて、人知れず思ひやりきこえぬにしもあらざりしかど、伝へきこゆべきよすがだになくて、筑波嶺(つくばね)の山を吹き越す風も浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて年月重なりにけり。限れることもなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ常陸は上りける。
伊予介と言った人は、故院がお亡くなりになった翌年、常陸介になって下向したので、帚木も伴われていってしまった。須磨の御謫居(たっきょ)もはるか東国で聞いて、人知れず思いを馳せ申し上げることがないわけではなかったが、その気持ちをお伝えするよすがさえなくて、筑波嶺の山を吹き越えてくる風も不確かな思いがして、わずかな音沙汰さえないままに年月が重なってしまった。いつまでと限られた御謫居ではなかったが、京にお帰りになってお暮らしになったそのあくる年の秋に常陸介は上洛したのであった。
「故院」は桐壷院で、亡くなったのは光源氏二十三歳の十月でした。その翌年に伊予介だった人物は常陸介に任ぜられて現地に下ったのです。伊予介も常陸介も地方の次官ではありますが、伊予は上国、常陸は大国です。しかも常陸国の守(かみ)は親王が名目上任ぜられるので、介は事実上の長官。かなり実入りもよかった役職なのです。それに伴われて、妻の「帚木」も下っていきました。ここでは「帚木」といっていますが、一般的に「空蝉」と言われる人のことです。彼女は「帚木」巻で登場して「数ならぬ伏屋に生(お)ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木」の歌を詠みました。
光源氏が須磨に落ちたのは二十六歳でしたから、空蝉の常陸下向の二年後でした。その噂を聞いて空蝉も心を痛めたのですがはるか東国にいては情報すら満足に伝わりません。「筑波嶺の山を吹き越す」の部分は、「甲斐が嶺(ね)を嶺(ね)越し山越し吹く風を人にもがもやことづてやらむ(甲斐の山の峰を越し、山を越して吹く風よ、お前が人であってくれればいいのだが。そうすればことづてができるのに)」(古今集・東歌)の「甲斐が嶺」を言い換えたものと思われます。そして光源氏が都に帰った翌年、つまり光源氏二十九歳の秋に常陸介一行は都に戻ることになるのです。
そして逢坂の関に入るちょうどその日に、光源氏(このとき内大臣)が石山寺に願ほどきに参詣に行くところだったのです。石山寺は、申すまでもなく今の大津市にある寺で、紫式部が『源氏物語』を書いたという伝承のあるところです。光源氏はこの年には住吉(大阪の住吉大社)にもお礼参りをしていますので、この石山参詣も無事に帰京できたことの願ほどきに来たと考えられます。常陸介の先妻の子の河内守(光源氏が空蝉と通じた時は紀伊守)などが常陸介一行を迎えに来ていて、光源氏の石山参詣の情報を伝えました。光源氏は当然大勢で参詣しますから、道が混むことが予想され、結局常陸介一行はぶつかる形になることを遠慮して関のあたりで道を開けて光源氏を先に通すことにしました。常陸介一行には女車も多く、光源氏の前駆を務める者たちはこの女車に目を止めたりしています。
九月晦日(ながつき つごもり)なれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋よりさとくづれ出でたる旅姿どもの、色々の襖(あを)のつきづきしき縫ひもの、括り染めのさまも、さる方にをかしう見ゆ。御車は簾おろしたまひて、かの昔の小君、今は右衛門佐なるを召し寄せて「今日の御関迎へはえ思ひ棄てたまはじ」などのたまふ。御心のうちいとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も人知れず昔のこと忘れねば、とり返してものあはれなり。
行くと来(く)とせきとめがたき涙をや
絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし、と思ふに、いとかひなし。
九月の末なので、紅葉が色とりどりにまぜ合わせて、霜枯れの草が濃淡さまざまに一面に風情ありげに見えるあたりに、関屋からさっと崩れ出た多くの旅姿の、色さまざまな狩衣の、それにふさわしい縫いものや、括り染めのありさまも、旅装束なりにおもしろく見える。光源氏の御車は簾をおおろしになって、あの昔の小君、今は右衛門佐である者をお呼び寄せになって「今日私が関までお迎えに参りましたことはお見捨てにはなれますまい」などとおっしゃる。御心の中ではとてもしみじみとお思い出しになることが多いのだが、ひととおりの挨拶しかできずにかいのないことである。女も、人知れず昔のことは忘れていないので、思い返してしんみりとしている。
常陸に行ったときも戻ってきた今も
せきとめがたい涙を、絶えず湧き出
る関の清水とご覧になっているので
しょうか
私の心などおわかりにはならないだろう、と思うと、まったくかいのないことである。
周囲の風景がいかにも風情豊かな時節です。光源氏は、かつて空蝉との仲立ちとなってくれた小君、今は右衛門佐になっている若者を召し寄せて「わざわざお迎えに来たのですよ」と、またまたしゃれたこと(いいかげんなこと?)を言っています。もちろん空蝉にはそうではないことくらいわかっているのですが。光源氏はいくら何でも人目が多いのでそれ以上のことは言いにくいのです。空蝉も昔のことを思い出しています。「行くと来と」は空蝉がひとりかみしめるように詠んだ歌です。常陸に行くときは都を離れますから当然悲しいのです。そして今もまた涙があふれてきます。しかしその気持ちを光源氏はわかってはくれないだろうと思うのです。この歌は、「せきとめ」に「(逢坂の)関」を掛け、関の清水(逢坂の関にあった清水で歌にしばしば詠まれた。今は「関の清水跡」が置かれている)と涙を重ねています。古注釈の『岷江入楚(みんごうにっそ。みんごうじっそ)』はこの歌に関して「心のうちに源をふかく思ふ心は見えたり」と言っています。
この場面も『源氏物語絵巻』が残っていますが、あいにく保存状態が悪く、顔料がかなり剥落しています。
↑源氏物語絵巻 関屋
あくまで現存するものだけの話ですが、この場面が一見して『源氏物語絵巻』のほかの場面と違っているのは、人物を大きく描かず、風景を広く描いていることでしょう。
画面左上には琵琶湖が見え、空蝉一行の人々が描かれます。画面左手前に大きく描かれた牛車は空蝉のものかもしれません。右から九十九折(つづらおり)の道を見え隠れしながら人がやってきます。これが光源氏の一行でしょう。中央やや右奥に牛車がほんのかすかに見える(顔料が落ちていて、枠しか見えません)のですが、これは光源氏の乗る物でしょう。右側中ほどに鳥居、その向こうに祠(ほこら)が見え、右隅にはこれもほとんど分かりませんが、関の清水をあらわすのであろう懸樋(かけひ)が描かれています。
↑鳥居と祠
↑鳥居と祠のイメージ
↑掛樋
↑掛樋のイメージ
木々は紅葉、黄葉、常緑の葉が描かれ、晩秋の風景です。出会いなのに別れ、その皮肉が感じられます。この絵にも加藤純子さんの模写があるのですが、ここでは略します。
↑土佐光吉ほか 源氏物語画帖 関屋
この絵では、手前の八葉車が光源氏の乗り物で、左奥がその通過を待つ空蝉一行です。
光源氏は石山に参って都に戻るのですが、その迎えに右衛門佐(かつての小君)がやってきました。光源氏の石山での参籠については、『岷江入楚』が「七日参籠し給へるにや」と記しています。昔はすぐそばに置いてかわいがっていた(男色の様相も感じられる関係だったのです)ので、五位になるときまでは光源氏の恩を受けていたのですが、光源氏の須磨謫居のあとは常陸に行っていたのです。
佐(すけ)召し寄せて御消息あり。今は思し忘れぬべきことを、心長くもおはするかな、と思ひゐたり。「一日(ひとひ)は契り知られしを、さは思し知りけむや。
わくらばに行きあふみちをたのみしも
なほかひなしやしほならぬうみ
関守の、さもうらやましく、めざましかりしかな」とあり。
右衛門佐をお召しになって御消息がある。今となってはお忘れになってしまってもよさそうなものを、お心変わりなさらぬことだ、と右衛門佐は思ってひかえている。「先日は宿縁というものが思い知られたのだが、そう思い知りはなさいませんでしたかか。
たまたま行き会ったところが「逢ふ」
という名を持つ「近江路」だったので
期待したのだが、やはりかいのないこ
とであったな、貝もいない湖では。
関守が、いかにもうらやましく、いまいましかったよ」とある。
呼び寄せられた右衛門佐は、光源氏が今も空蝉に心を残しているのだと感じます。そして空蝉への手紙を託されます。自分は運命の出会いだと思ったが、あなたはどうですか、としたうえで、和歌が書かれています。「行きあふみち」は「行き会ふ」に「近江路」を掛け、「かひなし」には「琵琶湖が淡水湖なので海の貝がいない」の意味を掛けています。『伊勢物語』の「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」のように、「関守」は恋路を邪魔する者という意味があり、ここでは常陸介がうらやましくも邪魔であった、というのです。もちろん、逢坂の関の縁でわざわざ「関守」と言っているのです。
光源氏はその手紙を右衛門佐に渡すに際して、「長年のご無沙汰で初めてお便りするような気持ちですが、心の中ではいつとなく、つい今しがたのような気になるのです。色めかしいといっそうお憎みになるだろうか」と言葉を添えます。右衛門佐は恐縮してそれを受け取り、姉に渡して「私に対しても今も変わらず優しく接してくださいますのでとてもお断りすることはできません。お便りをしても誰もとやかくは言いませんから」と返事を書くように求めます。空蝉も、さすがにこらえきれなかったものか、「あふさかの関やいかなる関なれば 繁きなげきの中をわくらむ(逢坂の関はいったいどういう関だからというので、木が生い茂る中を嘆きながらかき分けていくのでしょうか)」と返事を書きました。「あふさか」に「逢ふ」を掛けることはお分かりだと思います。「関」の語を二つ用いていますが、それほどに重い意味を持つ場だった、というのでしょう。「なげき」には「木」が掛けられて、逢坂山の木々の中を、嘆きながら進んだ、というのです。その後もふたりはときどき手紙を交わしていました。
かかるほどに、この常陸守、老いのつもりにや、悩ましくのみしてもの心細かりければ、子どもにただこの君の御ことをのみ言ひおきて「よろづのこと、ただこの御心にのみまかせて、ありつる世に変はらで仕うまつれ」とのみ、明け暮れ言ひけり。女君、心うき宿世ありて、この人にさへ後れて、いかなるさまにはふれまどふべきにかあらん、と思ひ嘆きたまふを見るに、「命の限りあるものなれば、惜しみとどむべき方もなし。いかでか、この人の御ために残しおく魂(たましひ)もがな。わが子どもの心も知らぬを」とうしろめたう悲しきことに言ひ思へど、心にえとどめぬものにて、うせぬ。
そうこうしているうちに、この常陸守が、老いが重なったためか、ずっと病気がちで、何となく心細かったので、子どもたちに。ただこの君のことばかりを言い残して「なにごとも、ただこの方のお心のままにして、私の生きているうちと変わることなくお仕えせよ」とばかり、明け暮れ言っていた。女君(空蝉)は、つらい宿世があって、この人にまで先立たれて、どのように落ちぶれていくことになるのだろう、と思い嘆いていらっしゃるのを見るにつけて、「命は限りあるものだから、惜しんでとどめるすべもない。なんとかして、この人の御ために魂をあとに残しておきたいものだ。自分の子どもたちの心もどうかわるかわからないのだから」と気がかりで悲しいことと言い、また思うのだが、気持ちでは命はとどめられないものなので亡くなった。
「常陸守」とあるのは「常陸介」のことで、前にも書きましたように、常陸守は親王が「常陸大守」として名目上務めるものであったために、「介」が事実上の「守」の役割を果たしました。そこで「常陸守」とも言ったのです。こういうことは「上野(かみつけ。こうづけ。群馬県)」や「上総(かづさ。千葉県)も同様でした。余談ですが、「上野」は「かみ・つ・け」で「下野(しもつけ)」とともに「毛野の国」でした。本来「上毛野」「下毛野」だったのです。国名は漢字二文字で書く決まりがありますので、それを略して「上野」「下野」としました。「上総」は「かみつふさ」のことで、「下総(しもつふさ)」とともに「ふさ」の国でした。
老いた常陸介は子どもたちに空蝉のことばかりを言い残したのです。空蝉はかつて桐壷院の後宮に上がる可能性もあった人で、それを一介の地方官が後妻にしたのですから、常陸介にしてみればとても大切な妻だったのです。妻が(一度のこととはいえ)光源氏と過ちを犯したことも知らないこの老人は、死期が迫った今もなお気の毒なくらい妻を思いやるばかりなのです。空蝉にしてみれば、満足のできる結婚ではなかったかもしれませんが、それでもここまで大事にしてくれた夫を失うと、今後どうなっていくのかわからないのです。常陸介は子どもなど信用ができないとばかりに、魂魄この土にとどまって妻を見ていたいと思うのですが、とうとう亡くなりました。
子どもたちは、しばらくは父の遺言どおり空蝉のことにも気を使いましたが、なんといっても継母ですから、冷たい態度を取り始めます。
ただこの河内守のみぞ、昔よりすき心ありて少し情けがりける。「あはれにのたまひおきし、数ならずとも、思し疎(うと)までのたまはせよ」など追従(ついそう)し寄りて、いとあさましき心の見えければ、うき宿世ある身にて、かく生きとまりて、はてはてはめづらしきことどもを聞き添ふるかなと、人知れず思ひ知りて、人にさなむとも知らせで、尼になりにけり。ある人々、いふかひなしと思ひ嘆く。守もいとつらう「おのれを厭ひたまふほどに、残りの御齢(よはひ)は多くものしたまふらむ、いかでか過ぐしたまふべき」などぞ。あいなのさかしらや、などぞ侍るめる。
ただこの河内守だけは、昔から好色な心があって、少し思いやりを見せた。「しみじみとご遺言になったのですから、ものの数にも入らぬ私ですが、お疎みにならずに何でもおっしゃってください」などとへつらって近づき、まったくとんでもない心のあらわなので、つらい宿世の身で、このように生き残って、ついには珍しいことまでをも聞くことだと、人知れず悟って、人にそういうつもりだとも知らせずに、尼になってしまった。周囲の人たちは、早まったことを、と思い嘆く。河内守もとてもうらめしくて「私をお嫌いになってのことであっても、残りの年月は長くていらっしゃるでしょうに、どうやってお過ごしになるのでしょう」などと・・。余計なおせっかいだ、という噂でございましたようで。
河内守は以前からこの継母に下心があったのです。「帚木」巻にも「紀伊守(今の河内守)、すき心にこの継母(ままはは)のありさまを、あたらしきものに思ひて、追従(ついそう)しありけば」と、この「関屋」巻とよく似た表現があります。空蝉はこの河内守の態度にも嫌気がさして、誰にも相談せずに出家してしまいました。「蓬生」巻の末摘花がそれなりの小さな幸せを得られる話であったのに対して、この空蝉の後日談はあっけないほどの結末を迎えてしまいました。このあと、空蝉はどうなるのか、それはかなり先の「玉鬘」巻までわからないのです。
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- [2020/05/14 00:00]
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コメント
関屋を読んで
ブログに載せて頂いた絵巻物は古くてさっぱり分かりません。
深い山の中とはわかります。
源氏と一度だけ契りを交わした空蝉は慎み深く源氏を避け続けていました。夫に赴任地の帰りに出会う事になり、女心でしょうか、せき(関にかけてるのですね)どめなく流れる涙を涌き出る清水と見てくれるだろうか、と自分だけ思っても甲斐がない。空蝉の悲しい心と思いました。
次に、旅装束に興味を持ちました。
細かい描写をしています。
色々な色を使った縫い物や、
括り染め(現在の絞り染めの事と思います)旅もおしゃれをしたのですね。やはり常陸介が亡くなったあとは出家したのですね。
♫ふじしろ小侍従さま
もともと、空蝉の父(衛門督)は娘を桐壺帝の後宮に入れるつもりだったのですが、はからずも老いた伊予介の後妻になったのでした(帚木巻)。その時点で彼女は転落したような気持ちになったかもしれません。
光源氏はかつて空蝉の姿を垣間見たとき、あまり美しい人ではないと感じていました(空蝉巻)。
そして光源氏が夕顔に死なれたあと、空蝉も夫に従って伊予に下ってしまいました(夕顔巻)。
今ここでまた遭遇したものの、まもなく空蝉は出家。二人の関係はずっとすれ違いだったと言うべきでしょうか。
絵巻の模写は画像検索されますと、加藤さんや岡田元史さんのものなどを見ることができます。
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