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源氏物語「絵合(ゑあはせ)」(2) 

『源氏物語』が書かれたころの天皇は一条天皇でした。大江匡房の『続本朝往生伝』の最初に描かれるのがこの人なのですが、そこでは「叡哲欽明、広長万事、才学文章、詞花過人、糸竹絃歌、音曲絶倫」とあって、文学や音楽に秀でていたことが書かれています。ほかの史料からも、この人が音楽、特に笛を愛したことが知られます。一条天皇の時代の画工には巨勢弘高のような人がいましたが、天皇は、音楽ほどは興味を持たなかったかもしれません。
『源氏物語』「絵合」巻のハイライトは、絵画を比べる場面です。

上は、よろづのことにすぐれて絵を興あるものに思したり。立てて好ませたまへばにや、二なく描かせたまふ。斎宮の女御、いとをかしう描かせたまひければ、これに御心移りて、渡らせたまひつつ、描きかよはさせたまふ。殿上の若き人々もこのことまねぶをば、御心とどめてをかしきものに思ほしたれば、まして、をかしげなる人の、心ばへあるさまに、まほならず描きすさび、なまめかしう添ひ臥して、とかく筆うちやすらひたまへる御さま、らうたげさ御心しみて、いとしげう渡らせたまひて、ありしよりけに御思ひまされるを、権中納言聞きたまひて、あくまでかどかどしく今めきたまへる御心にて、我人に劣りなむやと思しはげみて、すぐれたる上手どもを召しとりて、いみじく戒めて、またなきさまなる絵どもを、二なき紙どもに描き集めさせたまふ。

帝は、ほかのどんなことにもまして絵をおもしろいものだとお思いになっている。とり立てて絵をお好みになるからであろう、このうえなく巧みにお描きになる。斎宮の女御がとても美しくお描きになるので、こちらに御心が移って、お渡りになっては、お描きになって心を通わせていらっしゃる。若い殿上人も、絵を習う者に目をおかけになったので、まして、この美しい方が、風情豊かに、型通りではない絵を楽しんでお描きになり、しっとりとものに寄りかかって、なにかと筆をおいて思案なさっているご様子のいじらしさが帝の御心にしみて、とても頻繁にお渡りになって、以前より格段に梧桐愛がまさっているのを権中納言がお聞きになって、どこまでもとげとげしくてなにごとも派手になさる御心なので、自分が人に劣ってよいものかと自らを奮い立たせなさって、すぐれた名人たちをお呼び集めになって、きびしくご注意になって、このうえなくすぐれた絵の数々を、またとない立派な紙に描かせなさる。

冷泉帝は絵が好きだったのです。自分でも描いていたのですが、斎宮女御がうまく描くので、ついついこちらに足が向き、彼女の魅力に目覚めていきます。黙っていられないのが権中納言です。この人は何ごとにもはっきりして負けず嫌いな人で、こうなったらプロを呼んで描かせるほかはないと、対抗心を燃やすのです。

権中納言は、とりわけ「物語絵」が見ごたえがあると言います。12世紀には『源氏物語絵巻』をはじめとする絵巻が盛んに作られますが、『源氏物語』の時代から物語を絵とともに鑑賞する習慣があったのですね。『源氏物語絵巻』「東屋」に浮舟が絵の冊子を眺めて女房の読む物語を楽しんでいる場面があります。こういう絵を権中納言は描かせたのでしょうか。また彼は月次絵(毎月の行事や風景を描いたもの)にも言葉をつけて物語絵風にして描かせたのです。そして弘徽殿女御のところで帝に見せるようにして、帝がこの絵を斎宮女御のところに持って行かないようにするのです。光源氏はこういう権中納言の振る舞いを耳にして「なほ、権中納言の御心ばへの若々しさこそあらたまりがたかめれ(やはり、権中納言のご性分のおとなげないことといったら改まりようがないようだな)」といって笑うのです。「若々しさ」という皮肉な言葉を使って苦笑(「嘲笑」は言い過ぎでしょうか)しています。
光源氏は二条院(紫の上がいる)にある厨子の絵を取り出して、帝にお目にかけようと餞別します。長恨歌や王昭君の絵は感銘を受けるものではあっても、さすがに不吉な感じがして外すことにします。長恨歌は玄宗皇帝と楊貴妃が死別する内容ですし、王昭君は匈奴に遣わされた悲劇の女性です。王昭君について少し詳しく書きますと、漢の元帝は美人を求め、肖像画を見て美しい女性を選びました。そこで、女性たちは画家に賄賂を渡して美しく描いてもらうように頼んで元帝に愛されました。ところが王昭君は賄賂を渡さなかったので画家は美しく描かず、帝には愛されませんでした。あるとき匈奴の単于(ぜんう。匈奴の君主のこと)から美人を求められ、元帝は美人を惜しんで肖像画でもっとも美しくない者を与えることにしました。それが王昭君でした。王昭君が匈奴に遣わされるとき、元帝ははじめて実際の彼女を見て、その美しさに驚きましたが、もはや手遅れでした。
この機会に、光源氏は須磨での絵日記を取り出し、紫の上にも見せます。あまりにも見事なもので、紫の上は「ひとりゐて嘆きしよりはあまのすむかたをかくてぞ見るべかりける おぼつかなさは慰みなましものを(あのころ私はひとり都で嘆いておりましたが、海人の住むところを描いたこの絵をこうして見ればよかったのです そうすれば待ち遠しい気持ちが慰められたでしょうに)」と言います。「かた」は「絵(かた)」に「潟」を掛けています。「見る」は掛詞ではありませんが、同じ発音の「海松(みる)」を響かせて、「海人」「潟」とともに海の風景を表す縁語としています。光源氏はそれに対して「うきめ見しそのをりよりも今日はまた過ぎにしかたにかへる涙か(つらい目に遭ったあのころよりもこうして絵を見ると今日はまた昔に返って涙があふれます)」と返します。「うきめ」は「憂き目」と「浮き海布(め)」を、「かた」は「方」に「潟」を「かへる涙」は「返る波」を掛けています。


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↑伝土佐光信 源氏物語・絵合 表紙絵

上の絵は光源氏が紫の上に須磨の絵を見せているところです。
中宮ばかりには見せたてまつるべきものなり。かたはなるまじき一帖づつ、さすがに浦々のありさまさやかに見えたるを選(え)りたまふついでにも、かの明石の家ゐぞまづいかにと思しやらぬ時の間なき。

この絵は中宮にだけはお見せしなければならないものである。うまく描けていないというわけではなさそうなものを一帖ずつ、とはいえ、浦々の風景がはっきりうかがわれるものをお選びになるにつけても、あの明石の住まいのことを、まず「どうしているだろう」と思いやりなさらないときはないのである。

この絵は中宮にだけはどうしても見せねばならない、というのです。光源氏が中宮との間に犯した過ちで生まれた皇子(冷泉帝)は、右大臣側の謀略から何としても守らなければならなかったのです。みずから身を引いて皇子を守ることで父桐壷院への罪をつぐなわねばならなかった、そういう事情は藤壺中宮しか知らないことです。だからこそこの絵は中宮には見せねばならないというのでしょう。光源氏が須磨で謫居したのは、右大臣の娘の朧月夜と密通したことが露見したからだ、と安易に考えることはできません。藤壺が懐妊した時に、光源氏は夢を見たのですが、その夢の意味するところを夢解きに占わせると、「違(たが)ひめありて慎ませたまふべきことなむはべる(うまくいかないことがあって、謹慎なさらねばならないことがございます)」と言われていたのです。その「謹慎」が須磨謫居にほかならないのです。言い換えると、須磨謫居は藤壺との密通に遠因があったのです。
光源氏は、帝や斎宮女御に見せるにとどまらず、中宮の目に届くことを前提として慎重に絵を選ぶのですが、その折にはあの明石の君のことを思い出さずにはいられません。明石の姫君はもう三歳になっています。
光源氏が熱心に絵を選んでいるという噂を聞いた権中納言はいっそうのライバル心をむきだしにして軸や表紙などにも趣向を凝らした絵を作らせます。斎宮女御の方(光源氏方)は昔の物語で有名なもの、弘徽殿女御の方(権中納言方)は目新しいものを中心に集めています。
パッと見た目の華やかさは権中納言、しみじみと深みのあるのは光源氏という対照的な絵の選択です。それぞれの人物の個性が現れているのでしょう。
こうしてエスカレートした競い合いは帝付きの女房まで夢中にさせるもので、大がかりな品評会が行われるのが必然の状況になってきました。
折しも、中宮が内裏に来て、一緒になって絵を見ているのですが、そのうちに右方と左方に分けて論評しようということになりました。こういう優劣を競う催しは「物合(ものあはせ)」と総称されますが、具体的には「歌合(和歌を比べる)」「根合(ねあはせ。菖蒲の根を比べる)」「薫物合(たきものあはせ。お香を比べる)」などがありました。ここでは「絵合(ゑあはせ)」です。ただし、後に帝の御前で改めて絵合がおこなわれますので、ここではまだ私的な催しにとどまります。

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↑土佐光起 源氏物語絵巻 絵合

上の絵は、中宮の御前での絵合のようすで、女房たちが左右に分かれて絵について議論しているところです。巻物がいくつも置かれています

左方の梅壺(斎宮女御)方には平典侍(へいないしのすけ)、侍従内侍、少将命婦(せうしやうのみやうぶ)、右方の弘徽殿女御方には大弐典侍(だいにのないしのすけ)、中将命婦、兵衛命婦といった物知りの女房が方人(かたうど。物合で、左右それぞれの味方となって発言する人)となります。
なお左と右では何ごとも左が上位に来るもので、たとえば左大臣と右大臣では左大臣が上位です。天皇と皇后が並ぶとき、昨今は西洋風で天皇が右側に来ることが多いですが、京飾りのひな人形は天皇が皇后の左(向かって右側)に位置するのです。物合の場合も左方が上位に置かれることがあり、勝つことも多かったようです。相撲節会などでは左が勝つのがしきたりのようにもなっています。ここで斎宮女御が左になっているのも、やはり光源氏の権威がものを言うのでしょう。
ここからはいささか長くなるのですが、原文をしっかり読んでおきましょう。

まづ、物語の出で来はじめの親なる竹取の翁に宇津保の俊蔭を合はせてあらそふ。「なよ竹の世々に古(ふ)りにけることをかしきふしもなけれど、かぐや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契りたかく、神代のことなめれば、浅はかなる女、目及ばぬらむかし」と言ふ。右は「かぐや姫ののぼりけむ雲ゐはげに及ばぬことなれば、誰も知りがたし。この世の契りは竹の中に結びければ、下(くだ)れる人のこととこそは見ゆめれ。ひとつ家の内は照らしけめど、ももしきのかしこき御光には並ばずなりにけり。阿部のおほしが千々の金(こがね)を捨てて、火鼠の思ひ片時に消えたるもいとあへなし。くらもちの皇子(みこ)の、まことの蓬莱の深き心も知りながら、いつはりて玉の枝に瑕(きず)をつけたるをあやまちとなす」。絵は巨勢相覧(こせのあふみ)、手は紀貫之書けり。紙屋紙に唐の綺(き)を陪(はい)して、赤紫の表紙、紫檀の軸、世の常のよそひなり。

まず、物語の生まれ始めた親である『竹取の翁』に『宇津保』の「俊蔭」を合わせて競う。「なよ竹の節(よ)ではありませんが世々に古くなってしまったことはおもしろい「節」もないのですが、かぐや姫がこの世の濁りにも穢れず、はるかに気位(きぐらい)高く天に昇った契りというものは気高いもので、神代のことのようですから、浅はかな女には目も及ばないことでしょうね」と言う。右は「かぐや姫が昇ったとかいうはるかな天というところはなるほど私たちの想像を越えますから誰だって理解しがたいことです。この世との縁は竹の中で結んだのですから、賤しい人のことと見えるようです。ひとつの家の中は照らしたそうですが、宮中の畏れ多い御威光には並ぶことなく終わってしまいました。阿部のおほし(三番目の求婚者で右大臣。「あべのみうし」「あべのみむらじ」ともいわれる)が多くの金を捨てて、火鼠の皮衣が火に燃えたように、「思ひ」もまた瞬時にに消えたというのもまったくあっけないことです。くらもちの皇子(みこ)が、実際の蓬莱山が遥かなところにあることもかぐや姫の思慮の深いことも知りながら、偽って玉の枝に瑕(きず)をつけたところが欠点となるのです」という。絵は巨勢相覧(こせのあふみ)、手は紀貫之が書いている。紙屋紙に唐の綺(き。中国渡来の絹織物)を裏打ちして、赤紫の表紙で、紫檀の軸はありふれた装丁なのである。

最初に合わせられたのは、ご存じ『竹取物語』と『宇津保物語』の「俊蔭」でした。『竹取』については「物語の出で来はじめの親なる」と言っており、物語が書かれた「親」の作品であると言います。もちろん、この記述をもって『竹取』が最初に書かれた物語であると言ってしまうのは早計です。『竹取』は左方(斎宮女御)が出し、右方が『宇津保物語』の物語絵を出しています。まずは左方の意見です。古物語で、面白みはないけれど、かぐや姫がこの世の男たちの求婚をはねつけて高いプライドをもって高く天に帰って行ったのは気高いことであり、浅はかな女にはわからないことだ、というのです。あなたたちにはわからないでしょう、と相手方をおとしめる言い方です。「ひとつ家」と「百敷(ももしし)」は「一」と「百」を対置しているのです。「ひとつはできでも百はできない」という意味を込めています。成長したかぐや姫はその美しさのあまり「屋の内は暗きところなく光満ちたり」と『竹取』の本文にあります。「火鼠の思ひ」は燃えるはずのない火鼠の皮衣を火にくべるとめらめらと燃えてしまったということを言っており、「思ひ」の「ひ」には「火」が掛けられています。皮衣が片時の間に燃えて消えてしまったように、阿部右大臣のせっかくの思いも消えてしまったというのです。「あへなし」は「張り合いがない」という意味ですが、「あべなし」を掛けているのです。『竹取物語』にも同じ洒落が用いられていますので、なかなか機知に富んだ言い方です。ここでどっと笑いが起こったのではないでしょうか。くらもちの皇子は、蓬莱山にあるという玉の枝を要求された人です。「まことの蓬莱の深き心も知りながら」は「ほんとうの蓬莱山は深いところにあることを知って、またかぐや姫の深い心をも知って」というなかなか難しい掛詞になっています。『竹取物語』は古い写本がなく、今読まれているものはほとんど江戸時代に刊行されたものなのです。それだけに、私たちは書かれた当時の姿をどれほどありのままに読んでいるのか、はなはだあやしいと言わざるを得ません。しかし、この「絵合」巻に阿部右大臣やくらもちの皇子の話が、我々の知っているものと齟齬をきたさないものであることは確かです。竹から生まれたかぐや姫が翁に育てられて、くらもちの皇子や阿部右大臣らの求愛は失敗し、帝の求婚をもふりきってかぐや姫は天に帰る、というストーリーはもちろん、「あへなし」のしゃれまで同じでした。当時はすでに「古い物語」と思われていたことも含めて、これは貴重な証言というべきでしょう。もちろん、ほかの求婚者たちの話はどうだったのか、物語の末尾に書かれている富士山の名の由来の話はあったのか、など、平安時代の『竹取物語』の姿の全貌がわかるわけではありませんが。
巨勢相覧は延喜のころ(10世紀初頭)に活躍した画工です。紀貫之はご存じの通りの人で、やはり延喜年間に活躍した歌人です。『源氏物語』の時代設定が、紫式部の時代から半世紀くらい遡るものであるとしたら、相覧や貫之はさらにそれから半世紀遡る人たちです。我々の感覚で言うなら、尾崎紅葉の小説に谷崎潤一郎が解説を付けたような感じでしょうか(笑)。装丁は古風なもので、紙屋紙に舶来の絹織物を裏打ちしたもので、表紙も軸(巻物の軸)もありふれたものだったというのです。「紙屋紙」は官立の製紙所である「紙屋」で作った紙です。今も京都の北野天満宮のそばに紙屋川がありますが、そこにあったのが「紙屋」です。「陪して」というのは珍しい言葉ですが、「裏打ちをすること」を意味します。
このように見てみますと、単に物語の内容をほめたりけなしたりするだけでなく、論評の言葉遣いにも掛詞や縁語などさまざまな言葉の技巧を凝らしていることがわかります。こういうことが判定に影響を与えることもあったのかもしれません。
ここまでは、右方がなかなか手厳しく言っていて、優勢かもしれません。

「俊蔭は、激しき波風におぼほれ、知らぬ国に放たれしかど、なほさして行きける方の心ざしもかなひて、つひに人の朝廷(みかど)にもわが国にもありがたき才(ざえ)のほどを広め、名を残しけるふかき心をいふに、絵のさまも唐土(もろこし)と日本(ひのもと)とを取り並べて、おもしろきことどもなほ並びなし」と言ふ。白き色紙、青き表紙、黄なる玉の軸なり。絵は常則(つねのり)、手は道風(みちかぜ)なれば、今めかしうをかしげに、目も輝くまで見ゆ。左にはそのことわりなし。

「俊蔭は、激しい波風にまきこまれて見知らぬ国に流れ着きましたが、それでもやはり目指していた思いもかなって、ついによその朝廷にもわが国にも稀に見る才能を広く知らせ、名を残した人の深い心を語るに際して、絵の描きかたも唐土と日本とを並べて、おもしろいことがさまざまにあるのはやはり並ぶものがないのです」と言う。白い色紙、青い表紙、黄色の玉の軸である。絵は飛鳥部常則、筆は小野道風なので、当世風ですばらしく、目も輝くほどに見える。左には何とも反論の余地がない。

俊蔭は唐土に渡ろうとするのですが、大風に遭って波斯国(はしこく)に漂着してしまいます。それでも音楽の才能を発揮して、海外でも日本でも朝廷に重用されます。かぐや姫が皇后にならなかったのに比べて、すぐれているという論法です。絵の描き方も唐と日本をうまく描き分けているようです。右方の「俊蔭」を称賛しているのですから、当然これは右方の発言です。紙も表紙も軸もすべて鮮やかで、画工と書家は飛鳥部常則と小野道風(ともに10世紀後半の人)で、いかにも派手で現代的な絵なのです。最後に「左にはそのことわりなし」とあるのは左方の劣勢を言うのでしょうが、底本(飛鳥井雅康筆。通称「大島本」)は「右には・・」としています。「左」と「右」の字はよく誤写が起こるので、ここも「左」として解釈しました。
斎宮女御方はどうも押され気味ですね。

次に、伊勢物語に正三位を合はせて、また定めやらず。これも右はおもしろくにぎはしく、内裏わたりよりうちはじめ、近き世のありさまを描(か)きたるは、をかしうみどころまさる。

次に『伊勢物語』に『正三位』を合わせて、また判定しきれない。これも、右方はおもしろくて派手で、宮中あたりをはじめ、最近の世のありさまを描いているのはおもしろくてみどころがまさっている。

『伊勢物語』はおなじみの作品ですが、『正三位』は今に伝わらない作品です。しかし、宮中にまつわることや、最近のことを描いている点で注目を集めやすいのです。『伊勢物語』は在原業平(825~880)の時代を描いていますから、ざっと100年前のことなのですね。古典か現代文学か、というところでしょうか。

平内侍、
 「伊勢の海の深き心をたどらずて
ふりにし跡と波や消つべき
世の常のあだことのひきつくろひ飾れるにおされて、業平が名をや朽(くた)すべき」とあらそひかねたり。右の典侍、
 「雲の上に思ひのぼれる心には
    千尋の底もはるかにぞ見る」
「兵衛の大君の心高さはげに棄てがたけれど、在五中将の名をばえ朽さじ」とのたまはせて、宮、
 「見る目こそうらふりぬらめ年経(へ)にし
    伊勢をのあまの名をや沈めむ
かやうの女言(をむなごと)にて乱りがはしく争ふに、一巻(ひとまき)に言の葉を尽くしてえも言ひやらず。ただ浅はかなる若人どもは、死にかへりゆかしがれど、上のも、宮のも、片端をだにえ見ず、いといたう秘めさせたまふ。


(左方の)平内侍は、「伊勢物語の深いおもむきをたどり知らずに古めかしいものとしてけなしてしまってよいものでしょうか。 
世にありふれた恋物語のわざとらしく飾り立てたものに圧倒されて、業平の名を汚してよいものでしょうか」となかなか主張しきれない。右の大弐典侍は、「雲の上(宮中)に願いをかけて昇った(入内した?)人物の心に比べると、千尋の底もはるか下に見るのです」。「兵衛の大君(長女)の志の高さはなるほど捨てがたいのですが、在五中将の名はけなすわけにはいかないでしょう」とおっしゃって、中宮が「見た目はうらぶれているでしょうが、長年読まれてきた伊勢物語の名をおとしめてよいものでしょうか」。と詠みました。このような女の議論で、とり。めもなく言い争っているので、一巻に言葉を尽くして、簡単には結論が出ない。ただ浅はかな若い女房たちは、死ぬほどこの絵合を見たいと思っているのだが、帝の女房も、中宮の女房も、ほんの片端さえ見ることができず、たいそう厳しく秘密になさっている。


歌による議論になりました。ここに見える歌も技巧を凝らすことで論評としての価値を高める意味がありそうです。平典侍の「伊勢の海の」はもちろん『伊勢物語』を評価しているのです。そのポイントは「深き心」つまり物語の文学性にあります。そこを見ないで、古臭いものだと言ってよいものだろうか、というのは、今の古典文学愛好家と同じ発想ですね。「深き」は「深き心」に「海の深き」かけて、「海」「波」の縁語になっています。それに対して「雲の上に」は「伊勢の海の深さ」を「低さ」と捉えて雲の上に昇って行った『正三位』の方が優れていると言います。「雲の上」は「雲上」つまり宮中のことを指し、高いところに昇れば海は低く見える、という意味と内裏に入ることを掛けて表現しています。
『正三位』という物語がどういうものかわからないので読み解きにくいのですが、兵衛の大君という人物が登場するものらしく、これは女性ですから、大した身分でもないのに入内したという内容なのかもしれません。「正三位」というタイトルは大納言、中納言クラスの官位ですから、たとえばこの「兵衛」(大君の父。兵衛は近衛のような花形の役所ではなく、兵衛佐なら五位レベルの官職)なる人物がその正三位まで上り詰めたということなのかもしれません。
そこに藤壺中宮が口を挟む形で、『伊勢物語』を擁護します。
「見る目」は「海松布(みるめ)」を掛け、「うらふりぬ」は「浦古り」に「心(うら)ぶれ」を掛け、「あま」「沈む」とともに縁語となっています。全体として海辺のわびしい風景を詠んでおり、須磨に流謫した光源氏のわびしさも思い出させます。
この議論では、左方は古典の魅力、作品のもつ高い精神性などを訴え、右方は新しいはなやかさや登場人物の身分の高さなどを問題にしています。やや右方優勢ですが、藤壺中宮の歌によって左方も捨てたものではないという情勢です。
さて、勝敗はどうなるのか、まだ予断は許さないのです。

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コメント

絵合わ 2 わ読んで

絵合わせ1は勝負は絵合わせで決める話で決まりのようでしたが、絵合わせ2は
それぞれの後見で準備が進められて
面白くなってきました。
源氏と権中納言は御寵愛が深い方が
政治の勝ちに繋がるため必死です。大変面白いお話しに入りました。

  • [2020/05/21 16:53]
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  • ふじしろ小侍従
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絵合わせ2

先生はミニ講座とおっしゃいますが、中身は濃く楽しいです。
竹取り・伊勢物語。王昭君も出てきました。
王昭君は懐かしいです。高校の世界史のテストで「王昭君について知ってる事を書け」でした。
宝塚歌劇で見たばかりだったので
得意になって書き、先生は良く勉強してるね。と褒めてくれた事を想いだしました。(笑)

  • [2020/05/21 17:14]
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  • ふじしろ小侍従
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♩ふじしろ小侍従さま

ありがとうございます。
中味が濃いかどうかはわかりませんが、分量はかなり多いですね(^◇^;)。
派手好み、新しいもの好き、負けず嫌いの権中納言の人柄がよくわかりますね。

絵合わせ2を読んで

この電子授業?
ブログとしてはロングブログです。
お書きになる先生は楽しんでいる
てはおっしゃいますが、大変な
時間です。
このブログの読者は大勢参加してるとお聞きしました。
それにしては、コメントの書き込みはすくないです。
5年以上前に"伊勢物語"位の頃でしょうか? "昔はおとめ"の
ハンドルネームを使っていらした方
コメント蘭を賑やかにして下さい。

  • [2020/05/21 18:08]
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  • ふじしろ小侍従
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先のコメントに誤字がありました。
コメント欄です。
金蘭の蘭ではないです。
恥ずかしい(/-\*)

  • [2020/05/22 08:50]
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