源氏物語「絵合(ゑあはせ)」(4)
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光源氏の出した須磨の絵があまりにも強いインパクトを与え、絵合は大きな感動を参会者に与えて終わりました。
夜明け方近くなるほどに、ものいとあはれに思されて、御土器(かはらけ)などまゐるついでに、昔の御物語ども出できて「いはけなきほどより、学問に心を入れてはべりしに、すこしも才(ざえ)などつきぬべくや御覧じけむ、院ののたまはせしやう、才学といふもの、世にいと重くするものなればにやあらむ、いたう進みぬる人の、命幸ひと並びぬるは、いと難きものになむ。品高く生まれ、さらでも人に劣るまじきほどにて、あながちにこの道な深く習ひそ、といさめさせたまひて、本才のかたがたのもの教へさせたまひしに、拙きこともなく、またとり立ててこのことと心得ることもはべらざりき。絵描くことのみなむあやしく、はかなきものから、いかにしてかは心ゆくばかり描きてみるべきと思ふをりをりはべりしを、おぼえぬ山がつになりて、四方(よも)の海の深き心を見しに、さらに思ひ寄らぬ隈なくいたられにしかど、筆のゆくかぎりありて、心よりはことゆかずなむ思うたまへられしを、ついでなくてご覧ぜさすべきならねば。かうすきずきしきやうなる、後の聞こえやあらむ」と親王(みこ)に申したまへば、
明け方近くなるころに、なんとなく感慨深くお思いになって、盃を取られるついでに、昔のお話がいろいろと出てきて「幼い頃から、学問にうちこんでいましたが、すこしでも学才などが身につきそうだとご覧になったのでしょうか、院がおっしゃったことには『才学というものは、世間でとても重んずるからであろうか、たいそう学識の深い人で、長命と幸福を併せ持つ人は、まったくめったにいないものだ。身分高く生まれて、そんなに学問をしなくても人に劣るはずもないのだから、無理に学問の道を深く極めようとするものではない』とおいさめになって、実用的な才(芸能や儀式典礼など)をあれこれお教えくださったのですが、拙いということはなく、とはいってもまた特にこれといって会得したこともございませんでした。絵を描くことだけは、どういうものか、ちょっとしたことではありますが、どうすれば満足できるように描いてみることができるのだろうと思う折々がございましたが、思いがけず山賤になって、四方の海の深い風趣を見ましたので、まったく思いの届かないことがないくらいに会得できたのですが、筆の運びにはかぎりがあって、思うほどにはうまくいかないと思われたのですが、機会がなくてはお目にかけるようなものではありませんので。このようにもの好きのようなことをすると、後世の噂にもなるでしょうか」と帥宮に申しなさると、
なんと、明け方近くまで二次会(?)が続いていたのですね。光源氏は、弟の帥宮に昔話を始めます。光源氏は漢学に熱心だったのですが、その様子を見た父の桐壷院が「世間で学問が重視されるために、誰しもそのことに熱心になりすぎて、長生きできないものだ。お前は無理に学問などしなくても高貴な家柄に生まれたのだから、無理に学問に励むな」というのです。普通なら「学問をせよ」と言いそうなものですが、根を詰めすぎると長生きしない、あるいは学者バカになって碌な人生を歩むことはできない、と案じたのですね。このあたりは、学者の家に生まれた紫式部の実感があるでしょう。そこまで勉強しなくてもいいのに、という例をあるいは彼女は父(藤原為時)などに見てきたのでしょうか。父ではなくても、学問が出世の糸口になる中流貴族の悲哀を目の当たりにしてきたでしょう。確かに、今でも学者の中には「とても変な奴」がいます(笑)。『源氏物語』の古い注釈書は孔子の弟子の顔回の例を挙げます。顔回は孔子の随一の弟子で、孔子自身が「顔回ほど学問をする者はない」と感嘆したくらいです。ところが彼は30代かせいぜい40歳くらいで亡くなり、孔子は激しく嘆くのです。この部分の解釈は顔回にこだわることはないでしょうが、学問に没頭して早世した人物としては的確な例ではあります。桐壷院はそんなことにならないようにと、光源氏にはもっぱら芸能などを教えたというのです。その中でも光源氏は絵だけはどうすれば満足できるように描いてみることができるのだろうかとこだわりがあったのです。そして彼は須磨での生活のときに完全に自家薬籠中のものにできたという、酔いまかせに自画自賛の言葉を吐露します。古注釈の『岷江入楚(みんごうにっそ。みんごうじっそ。中院通勝による注釈。16世紀末)』は「此物語一部の内にこれほどに源氏の自讃の詞なしと也云々(『源氏物語』全体を見渡してもこれほど光源氏の自画自賛の言葉は見当たらない、とのことである)」と言っています。光源氏は「こういう機会でもないとあなたにも見ていただけないので」と最後に言っており、帥宮を招いた真意はこれなのだというのでしょう。ただ、権中納言との絵合に弟を判者にするのはなんだかずるいような気もするのですが(笑)。
「何の才も、心より放ちて習ふべきわざならねど、道々に物の師あり、まねびどころあらむはことの深さ浅さは知らねど、おのづからうつさむに跡ありぬべし。筆とる道と碁打つこととぞあやしう魂のほど見ゆるを、深き労(らう)なく見ゆるおれ者も、さるべきにて描き打つたぐひも出でくれど、家の子の中にはなほ人に抜けぬる人、何ごとをも好み得けるとぞ見えたる。院の御前(ごぜん)にて親王(みこ)たち、内親王(ないしんわう)、いづれかはさまざまとりどりの才ならはさせたまはざりけむ。その中にも、とり立てたる御心に入れて、伝へうけとらせたまへるかひありて、文才(もんざい)をばさるものにていはず、さらぬことの中には、琴(きん)弾かせたまふことなむ一の才(いちのざえ)にて次には横笛、琵琶、筝の琴をなむ次々に習ひたまへると、上も思しのたまはせき。世の人、しか思ひきこえさせたるを、絵はなほ筆のついでにすさびさせたまふあだことこそ思ひたまへしか。いとかうまさなきまで、いにしへの墨書きの上手ども跡をくらうなしつべかめるは、かへりてけしからぬわざなり」と、うち乱れて聞こえたまひて、酔ひ泣きにや、院の御事聞こえ出でてみなうちしほたれたまひぬ。
「どんな技芸でも、心をこめないでは習得できるものではありませんが、それぞれの道に師があり、学ぶ手段のあることは、深さ浅さは別として、おのずから学んだことがきっと残るでしょう。筆をとる道と碁を打つことは、不思議にもってうまれたものがあらわれるもので、さほどの修練を積んではいないように見える間の抜けた者も、天賦の才によって描いたり打ったりできる者も現れます。しかし、権勢家の子の中にはやはり人に抜きん出た人がいて、それは何ごとをも愛好して習得したのだと思われます。桐壷院の御前で、親王や内親王は、どなたもさまざまにそれぞれの芸能をお習いにならなかった方はいらっしゃいません。その中でも、兄上(光源氏)は特に御熱心で、相伝なさったかいがあって、文才はいうまでもなく、それ以外のことでは、琴(きん)お弾きになることが第一の才で、次には横笛、琵琶、筝の琴を次々にお習いになったと院もお考えになり、またおっしゃってもいました。世間の人もそのようにお思い申しておりましたが、絵はやはり筆のついでに慰みごととしてなさっている夜着のようなものだと存じておりました。まったくこのように思いがけないほどに、昔の墨書き(墨だけで絵を描くこと)の名人たちが行方をくらましそうなのは、かえってけしからぬことです」と、乱暴な口のきき方で申し上げなさり、酔い泣きであろうか、院の御事を口に出し申し上げて、みな涙ぐんでいらっしゃった。
帥宮が答えます。
どんな技芸であっても一生懸命学ばないと身につかないとはいえ、師匠から学べばそれなりにかっこうはつくものの、書画と囲碁だけは天賦の才能によるのだ、といいます。図画工作が大の苦手だった私は、絵は才能がものを言うという意見に思わずうなずいてしまいました(笑)。桐壷院からはすべての子どもたちは音楽などを教わったようですが、帥宮の目から見ても光源氏の琴(きん)の見事さは格別なようです。琴(きん)は奏法が難しく、『源氏物語』が書かれたころはもう演奏する人は少なかったようです。光源氏はそのほかにも笛、琵琶、筝が得意ということになっています。それだけに、帥宮は兄がここまで絵がうまいとは思いがけなかったようです。言葉の最後に「けしからぬわざなり」とけなすような言い方をしているのは逆説的に称賛しているのですね。
絵の催しのあとに、絵についての話で盛り上がるというのはありがちなことだと思います。若菜下巻で女楽(女性による合奏)がおこなわれたあと、光源氏が音楽に詳しい息子の夕霧と音楽論をするところとも共通するように感じます。
三月二十日過ぎの月が出て、空が美しい頃なので、音楽の演奏が始まります。
和琴は権中納言、帥宮は筝、光源氏はやはり琴(きん)を奏でます。琵琶は少将命婦という女房、拍子は心得のある殿上人が任されます。次第に夜が明けて、花や人々の顔が見えるほどになり(ということは、かなり暗いところで演奏していたのですね)やがて鳥のさえずりも聞こえます。
そのころのことにはこの絵の定めをしたまふ。「かの浦々の巻は中宮にさぶらはせたまへ」と聞こえさせたまひければ、これがはじめ、また残りの巻々ゆかしがらせたまへど「今次々に」と聞こえさせたまふ。上にも御心ゆかせたまひて思しめしたるを、うれしく見たてまつりたまふ。はかなきことにつけても、かうもてなしきこえたまへば、権中納言は、なほおぼえおさるべきにや、と心やましう思さるべかめり。上の御心ざしは、もとより思ししみにければ、なほこまやかに思しめしたるさまを、人知れず見たてまつり知りたまひてぞ、頼もしく、さりともと思されける。
そのころなさることというと、この須磨の絵をひょうかすることばかりである。「あの浦々の巻は中宮のおそばにお置きください」ともうしあげなさったので、この絵のはじめのところや、また残りの数々の巻をご覧になりたいとお思いになるのだが、「そのうちに、次々と」と申し上げなさる。帝もご満足にお思いになったのを(光源氏は)嬉しくお思いになる。このようなちょっとしたことでもこのように(斎宮女御を)お世話申し上げなさるので、やはり世の評判は圧倒されるのだろうか、とご心痛でいらっしゃるようだ。帝のお心向けは、もともと(弘徽殿に)なじんでいらっしゃったので、やはり心こまやかにご寵愛になるようすを、人知れずお分かりになっていらっしゃるので、それが頼もしく、いくらなんでも、とお思いになった。
光源氏の絵を藤壺中宮がどのように見たのかは明確に書かれていませんでしたが、ここで光源氏は須磨の絵を中宮に差し上げるのです。以前、「中宮ばかりには見せたてまつるべきものなり(中宮だけにはどうしてもご覧いただきたいものである)とありましたが、それがここで中宮の手元に置くという形で実現します。中宮にはひそかにじっくり見てもらいたいのです。中宮はこの絵の前後も見たいと言いますが、光源氏はまた追ってご覧いただきます、とじらすように答えます。帝が喜んでいることで斎宮女御の株があがりましたが、権中納言は心中穏やかではありません。先に入内したのは自分の娘です。何としても中宮には娘がなってもらいたいのです。前の中宮は藤壺で、この人は皇統の人(桐壺院の前の帝の第四皇女)です。となれば次は藤原氏が中宮の地位を手に入れたいと思うのです。結果的にはこのあと斎宮女御、明石女御という光源氏の養女と実の娘が中宮の地位に就きます。これはいくら何でも源氏(皇統)に偏り過ぎなのです。帝が、もともと年齢の近い(帝が1歳年少)弘徽殿と仲がよいのが唯一の救いです。
光源氏は、後代の人が「この節会は冷泉帝のころに始まったのだ」というような新しい節会の例を作ろうとします。この「○○帝の時代に始まった」というのは実際に語り継がれるもので、その時代は聖代とされることもありました。なんとか冷泉帝の御代をそのようにしたいと考える光源氏は、このようなささいなことに関しても工夫するのでした。
大臣ぞ、なほ常なきものに世を思して、今すこしおとなびおはしますと見たてまつりて、なほ世を背きなむと、深く思ほすべかめる。「昔のためしを見聞くにも、齢足らで官位(つかさくらゐ)高く昇り、世に抜けぬる人の、長くえ保たぬわざなりけり。この御代には、身のほど覚え過ぎにたり。中ごろなきになりて沈みたりし愁(うれ)へにかはりて、今までもながらふるなり。今より後の栄えはなほ命うしろめたし。静かに籠りゐて、後の世のことをつとめ、かつは齢をも延べむ」と思ほして、山里ののどかなるを占めて御堂を造らせたまふ。仏経(ほとけきやう)のいとなみ添へてせさせたまふめるに、末の君たち、思ふさまにかしづき出だしてみむ、と思しめすにぞ、とく棄てたまはむことは難(かた)げなる。いかに思しおきつるにかと、いと知りがたし。
大臣はやはりこの世を無常なものとお思いになって、帝がもう少しおとなになられるのを拝見して、やはり世を背いてしまおうと、深くお思いになるようだ。「昔の例を見たり聞いたりしても、若くして高い官位に昇進し、世に抜きんでてしまった人は、長生きはできないものであった。この御代では、世評が身のほどに過ぎてしまった。人生の途中で生きているともいえないような身になって沈淪していたつらさに変わって、今までも生きながらえているのだ。今から後の繁栄はやはり命短いのではないかと気がかりだ。静かにじっと籠って、後世を願うお勤めをして、その一方で齢をも延ばそう」とお思いになって、山里ののどかなところを入手して御堂をお造らせになる。仏像、経巻の準備もあわせておさせになるようだが、お子様がたを、思いのままに大事に育てあげたい、とお思いになるにつけても、すぐに世をお棄てになることは難しそうなのであった。どのようにお考えになっているのか、まったく知りがたいことである。
これが「絵合」巻の巻末です。光源氏は、自分が今何をしてもうまくいく一方で、所詮この世はむなしいものという思いを強めます。今うまくいっているのは須磨で沈淪したことが反動となっているだけで、このあとはどうなるかわからない、と思っています。そして、静かに勤行に励めるようなお堂を造らせ始めます。ここではどこに造らせているのか不明ですが、次の「松風」巻でそれは明らかになります。ただ、十歳の夕霧(長男)と三歳の明石の姫君(長女)の養育があるだけにその願いが叶う日は遠そうです。
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- [2020/05/28 00:00]
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