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源氏物語「松風(まつかぜ)」(1) 

「松風」巻は、「絵合巻」と同じく光源氏三十一歳、身分は内大臣です。内大臣というのは、もともとは内臣(うちつおみ)と言い、あの中臣鎌子(鎌足)がはじめて任ぜられました。天智天皇のころに内大臣と称されるようになって、左右の大臣より上に置かれたのですが、やがて廃止に至りました。ところが奈良時代の終わりに左右大臣の下に置かれるようになり、その後平安時代にもしばしば置かれたのです。ただし、令の規定にはない、いわゆる「令外官(りやうげのくわん)」です。『源氏物語』の時代は、左大臣藤原道長、右大臣藤原顕光に対して内大臣として藤原公季がいました。それ以前には藤原伊周もその任にありました。
「絵合」巻で光源氏が将来の出家に備えて堂を造作することが記されていました。しかし彼は面倒を見なければならない人たちがいます。

東(ひむがし)の院造りたてて、花散里と聞こえし、移ろはしたまふ。西の対、渡殿などかけて政所(まどころ)家司(けいし)など、あるべきさまにしおかせたまふ。東の対は明石の御方と思しおきてたり。北の対は、ことに広く造らせたまひて、かりにてもあはれと思して、行く末かけて契り頼めたまひし人々、集(つど)ひ住むべきさまに、隔て隔てしつらはせたまへるしも、なつかしう見どころありて、こまかなり。寝殿は塞(ふた)げたまはず時々渡りたまふ御住み所にして、さる方なる御しつらひどもしおかせたまへり。

東の院を造営して、花散里と申した方をお移しになる。その西の対から渡殿にかけて政所の家司などをしかるべきさまにお置きになる。東の対は明石の御方と東の対は明石の御方とお考えになっている。北の対は、特に広く造らせなさって、かりそめにであっても心を寄せて、将来をお約束になって自分を頼りにさせていらっしゃった女性がたが、集まって住めるように、隔てをじゅうぶんになさったのも、好ましくすばらしいもので、こまやかに配慮がある。寝殿は使わせないようになさって、時々お渡りになるときのお座所として、それにふさわしい調度を整えさせておかれた。

「東の院」は光源氏の住まいである二条院の東に建てられたものです。「澪標」巻に「二条院の東なる宮、院の御処分(みしようぶん)なりしを、二なく改め造らせたまふ。花散里などやうの心苦しき人々住ませむなど、思しあててつくろはせたまふ(二条院の東にある宮は、桐壷院の遺産であったが、それをまたとなく改修させなさる。花散里などのような気がかりな人たちを住まわせようなどと心づもりをなさって造営なさる)」と見えます。かねてから花散里などの居所にすることを念頭においていたようです。予定通り、花散里を西の対に住まわせます。そこから渡殿にかけてのところに、政所(家政を司るところ)を置くのは、花散里がこの屋敷のもっとも重要な人物、あえて言うなら女主人であることを意味します。東の対は明石の君(ここにあるように、この人は「明石の御方」と呼ばれることも多いのです)のためにと心づもりしています。そして北の対には多くの女性たちを住まわせるように、プライバシーに気を使いながら造作しています。末摘花や空蝉が想定されます。寝殿はどなたの居所ともせず、光源氏が訪問するときの居場所のためにあけてあります。

明石には御消息絶えず、今はなほ上りぬべきことをばのたまへど、女はなほわが身のほどを思ひ知るに、「こよなくやむごとなき際の人々だに、なかなかさてかけ離れぬ御ありさまのつれなきを見つつ、もの思ひまさりぬべく聞くを、まして何ばかりのおぼえなりとてかさし出でまじらはむ。この若君の御面伏せ(おもてぶせ)に数ならぬ身のほどこそあらはれめ。たまさかに這ひ渡りたまふついでを待つことにて、人わらへにはしたなきこといかにあらむ」と思ひ乱れても、また、さりとて、かかる所に生ひ出で、数まへられたまはざらむも、いとあはれなれば、ひたすらにもえ恨み背かず。親たちもげにことわりと思ひ嘆くに、なかなか心も尽き果てぬ。

明石にはお便りが絶えず届き、もう、今となっては都に上るようにということをおっしゃるのだが、女はやはりわが身のほどを思い知っているので、「このうえなく高貴なご身分の方々でさえ、なまじ離れてしまわれないでいて、つれないご様子を見ては、もの思いが重なるようだと聞いているので、まして自分はなんらご寵愛があるわけでもないのに出しゃばることができようか。この若君の不面目として、私のものの数にも入らない身のほどが明らかになるだろう。まれにおでましになる機会を待つだけで、もの笑いになってきまりの悪いことがどれほどあるだろう」、と思い乱れながらも、また、だからといって、このようなところでご成長になって、人並みに扱われなさらないとしたら、それもとてもおいたわしいので、きっぱりお恨みしたり背いたりもおできにならない。親たちも、なるほどそれも道理だと思ってはため息をついているので、かえって思案も尽きるのであった。

「澪標」巻(2年前。光源氏29歳)で、明石の君は三月の初めごろに女児を出産しました。光源氏はその時、かつて宿曜(すくえう。星の運行によって人の運命を占う術)で「子どもが三人できる。帝と后と太政大臣になる」と占われたことを思い合わせ、この女児が后となる運命の人だと思ったのです。そしてその秋に光源氏は住吉に参詣しますが、同じ時に明石の君も参詣に来ていました。しかし光源氏の威勢に圧倒された明石の君は立ち去るほかはなく、光源氏と歌だけは交わしたものの、自分の身のほどを思い知らされたのです。それ以来の明石の君の登場です。
彼女は父方の祖父が大臣で、母方の曾祖父は中務宮(なかつかさのみや。皇族で中務卿となった人)という、それなりの血筋の人なのです。しかし、父は望んで播磨守となり、彼女自身は「田舎育ち」なのです。そういう自分の身のほどを考えると、光源氏から上洛を勧められても安易に応諾することはできません。その一方、田舎にいては娘の将来が案じられるのです。そのジレンマに陥ってしまって、親たちまで思案が尽きるありさまです。

明石の入道は思い出したことがあります。妻(明石の君の母)の祖父である中務宮の持っていた屋敷が大堰川のほとり(嵐山の近在)にあるのです。今ではすっかり荒れているので、そこの宿守(管理人)のようになっている男を呼び出して、その屋敷を住めるように改修するように命じたのです。長らく自分のもののようにして住んでいたこの男は嫌な顔をして「最近お近くに内大臣様(光源氏)がお堂を建てていらして騒がしいですから、静かなところをお望みならほかを当たられたらどうですか」とそれとなく拒否します。このあたり、既得権を守ろうとするこの男のいやらしさが描かれています。少し読んでみましょう。

「みづから領(らう)ずるところにはべらねど、また知り伝へたまふ人もなければ、かごかなるならひにて、年ごろ隠ろへはべりつるなり。御庄(みさう)の田畑(た はたけ)などいふことの、いたづらに荒れはべりしかば、故民部大輔の君に申し賜りて、さるべきものなどたてまつりてなむ、領じ作りはべる」など、そのあたりの貯(たくは)へのことどもをあやふげに思ひて、髭がちにつなし憎き顔を、鼻などうち赤めつつはちぶき言へば、「さらにその田などやうのことはここには知るまじ。ただ年ごろのやうに思ひてものせよ。券などはここになむあれど、すべて世の中を棄てたる身にて、年ごろともかくも尋ね知らぬを、そのこともいま詳しくしたためむ」など言ふにも、大殿のけはひをかくれば、わづらはしくて、その後、ものなど多く受け取りてなむ急ぎ造りける。

「そりゃ、私の持っている土地ではございませんがね、ほかに伝領なさってる人もありませんから、ひっそりと長年住み慣れているのでございますよ。荘園の田畑なんていうのは役にも立たないほど荒れてましたんでね、亡くなった民部大輔様にお願いして下げ渡していただきまして、ちゃんとしかるべきものは差し上げたうえで、自分の土地として耕作していますんで」など、そのあたりの財産権などのことを不安に思って、髭がちの憎らしい顔つきで、鼻などを赤らめて不平そうに言うので「その田などのことは、私はとやかく言うまい。ただこれまでのように勝手にするがよい。地券などは私の方にあるが、すっかり世の中を棄てたる身で、長年どうなっているかはわからないから、そのこともすぐに詳しく整えよう」などと言う言葉の中にも、大殿(光源氏)と関わりをにおわせるので、面倒になって、男はその後、多くのものを受け取ったうえで急いで改修した。

いかにも自分の権利を主張するばかりの、クレーマータイプのずる賢そうな男です。髭がちで、赤い鼻で口をとがらせて権利を主張するのです。「はちぶく」は「蜂吹く」で「蜂を吹き払う」のこと。口をとがらせて不満な口吻でものをいうようすを言います。こんなおっちゃん、今もいますよね。管理人の言葉に「故民部大輔」が出てきますが、これは中務宮の子なのでしょう。「民部大輔」といえば通じる人物なのです。実は、ここは古注釈以来、実在の人物がイメージされた書き方だと言われます。「中務宮」は大堰に別荘を持っていた中務卿兼明親王(914~987。醍醐天皇の皇子)で、民部大輔はその子の源伊行を指すのであろうというのです。さて、この文句言いの髭おやじに対して、入道は「耕作地は好きにするがよい、こちらは地券を持っている」と法的にはこちらのものだ、と反論します。そして言葉の端々に光源氏の縁があるようにいうので、さすがの男もしぶしぶ、しかし改修のための費用はきちんと受け取ったうえで造営することにしたのです。土地の権利をめぐるなまなましいやりとりです。『源氏物語』は時としてこういうことが書かれるのもおもしろいところです。

光源氏は明石入道のこういう思わくを知らずにいたのですが屋敷の改修が終わると入道から連絡がありました。すると光源氏は早速腹心の部下、惟光(これみつ)を使者としてさらに立派に改築させます。この屋敷は川のほとりなのですが、光源氏が造営しているお堂は「大覚寺の南に当たりて、滝殿の心ばへなど劣らずおもしろき寺なり(大覚寺の南にあって、滝殿の風趣などは大徳寺のそれに劣らず風流な寺である)」ということになっています。大覚寺は、今は右京区嵯峨大沢町で、いわゆる「なこその滝」がありました。藤原公任が「滝の音は絶えて久しくなりぬれど」と詠んだものです。公任の時代、ということは『源氏物語』の書かれた時代ですから、このころには、この滝は「絶えて久しく」なっていたのです。『源氏物語』はひと時代前に時代を設定していますから、この滝がまだあったということなのでしょう。この光源氏のお堂は、このあたりにあった醍醐天皇皇子の源融(みなもとのとほる)の栖霞観(せいかくわん。のちに寺となって栖霞寺)をイメージして書かれたのだろうと言われます。なお栖霞観(寺)は後に建てられた清凉寺に含まれる形で名残をとどめています。

親しき人々、いみじう忍びて下し遣はす。のがれ難くて、いまはと思ふに、年経(へ)つる浦を離れむことあはれに、入道の心細くて独りとまらんことを思ひ乱れて、よろづに悲し。すべてなどかく心づくしになりはじめけむ身にかと、露のかからぬたぐひうらやましくおぼゆ。親たちも、かかる御迎へにて上る幸ひは年ごろ寝ても覚めても願ひわたりし心ざしのかなふといとうれしけれど、あい見で過ぐさむいぶせさの、たへがたう悲しければ、夜昼思ひほれて、同じことをのみ、「さらば若君をば見たてまつらでははべるべきか」と言ふよりほかのことなし。

腹心の者をごく内々に明石に遣わす。もはやのがれようもなくて、いよいよこれでと思うにつけても、長年過ごしてきたこの浦を離れることがしみじみと悲しく、入道が心細いようすで独りあとに残ることを思って心が乱れ、何かにつけて悲しいのである。およそ、なぜこのように心をすり減らすような境涯になり始めた我が身なのかと、源氏の君のお情けを受けることのない人がうらやましく思われる。親たちも、このような御迎えをいただいて都に上る幸いは、数年来、寝ても覚めても願い続けていた思いが叶うのだとたいそう嬉しいのだが、お互いに会うことなく過ごすことの気がかりさが耐え難いほどに悲しいので、夜も昼もぼんやりとして、同じことばかり、「そうなったら若君を拝見できずに過ごすことになるのか」という以外に何も言うことはない。

舞台は明石に移ります。これまでは上洛をためらっていた明石の君ですが、父が大堰の屋敷を整備してくれて、光源氏からは迎えもよこしてきました。もはや選択肢は一つしかありません。田舎とはいえ、住み慣れたところであり、また都に行くということは父との別れを意味します。そして、これでもう会えない可能性が高いのです。いっそ光源氏と出会わなければよかったとさえ思うのです。親にしてみれば、娘が光源氏のそばに行くという夢がかなうわけですから、理屈からすれば嬉しいことですが、肉親の情というのはそれでは済まないのです。「猛虎の孫とも会えないのか」とぼんやりするというのは、時代を越えて理解される心情でしょう。

明石の君の母尼はこれまでも夫の入道とは庵室を異にしていましたので、娘がいなくなると寂しさは一入深まるのです。かといって都に同行するのは、夫を見捨てるようでもあります。偏屈な夫ではあったものの、長らく共に暮らしてきただけににわかに別れるのもつらいのです。若い女房たちは田舎暮らしを逃れられることは嬉しいのですが、やはり住み慣れたところを去るのは悲しさも伴うのです。

秋のころほひなれば、もののあはれとり重ねたる心地して、その日とある暁に、秋風涼しくて虫の音もとりあへぬに、海の方を見出してゐたるに、入道、例の後夜(ごや)より深う起きて鼻すすりうちして行ひいましたり。いみじう言忌(こといみ)すれど、誰も誰もいと忍びがたし。若君は、いともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、袖より外(ほか)に放ちきこえざりつるを、見馴れてまつはしたまへる心ざまなど、ゆゆしきまでかく人に違(たが)へる身をいまいましく思ひながら、片時見たてまつらでは、いかで過ぐさむとすらむ、とつつみあへず。
  「行く先をはるかに祈るわかれ路に
たへぬは老いの涙なりけり
いともゆゆしや」とて、おしのごひ隠す。尼君、
  もろともに都は出できこのたびや
ひとり野中の道に惑はむ
とて泣きたまふさま、いとことわりなり。ここら契り交はしてつもりぬる年月のほどを思へば、かう浮きたることを頼みて棄てにし世に帰るも、思へばかなしや。御方、
「いきてまたあひ見むことをいつとてか
かぎりもしらぬ世をば頼まむ
送りにだに」と切にのたまへど、かたがたにつけてえさるまじきよしを言ひつつ、さすがに道のほどもいとうしろめたなき気色なり。


秋の時節なので、しみじみとした哀しみが重なる気持ちがして、旅立ちの日の暁に、秋風が涼しくて、虫の音もこらえきれないような時に、御方が海の方を眺めていると、入道が、いつもの後夜のお勤めよりまだ夜深いうちに起きて、鼻をすすりながらお勤めをなさっている。固く言忌みをしている(不吉なことを言わないようにしている)が、誰もかれもまったくこらえがたい。若君は、ほんとうにほんとうにかわいらしくて、夜光ったとかいう玉のような気がして、袖からはお放し申さなかったのだが、よくなじんでそばからお放しにならなかった心のほどは、忌まわしいほどこのように人とは違った身なので慎まねばならないとは思いながら、片時の間も拝見せずにはどうして過ごすことができようか、と抑えることができないでいる。
「将来をはるか先まで祈るこの別れ路にこらえきれないのは老いの涙であったよ まったく不吉なことで」
といって涙を拭って隠す。尼君は、
「一緒に都は出できましたが、今度の旅はひとりで野中の道にまようことになるでしょう」といってお泣きになるようすは、まったく道理である。夫婦として契りを交わして長らくつもり重なった年月を思うと、このように不確かなことをあてにして棄てた世間に帰るのも、思えば悲しいことである。明石の御方は、
「生きてまたふたたびお会いする日を、いつのことかもわからない世を頼みにするのでしょうか せめて見送りだけでも」としきりにおっしゃるのだが、何かと事情があってそれはできないことを言いながら、そうはいっても旅の途中のことがとても気がかりなようである。


季節は秋、寂しいころです。虫の声も哀しみを誘います。入道は後夜(晨朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜という一日を六つに分けた「六時」の最後の時間帯)のお勤めを普段より早く始めます。おそらく眠れなかったのでしょう。鼻をすするのは冷えるからではないでしょう。姫君の様子は比類ないかわいらしさで、「夜光る玉」に喩えられています。これは中国でいうところの「夜行珠」で、夜でも光る珍重すべき宝玉のことです。このかわいい孫娘をもう見ることができないと思うと、いくら言忌みしてもこらえられません。入道の歌の「行く先を」は、旅の安全を祈る意味に姫君の将来を願う気持ちを掛けています。尼君の歌は、夫と一緒に都から明石に来たのに、このたび(「旅」を掛ける)は一人だから途中で迷いそうだといいます。明石の君の歌の「いきてまた」は「京に行きて」と「生きて」を掛けています。いつ再会できるともわからないこの別れを悲しんでいます。そして「せめて都まで一緒に来てください」と頼むのですが、入道はいろいろな事情で行けないと言います。その事情とは、出家の身であること、明石を留守にはできないこと、老いて旅がつらいことなどでしょうか。
別れの場面はもう少し続くのですが、長くなりましたので、また次回にいたします。

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