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源氏物語「少女」(2) 

光源氏は、夕霧を大学に入れて六位から始めさせることにしました。夕霧の祖母である大宮は冷遇ともいえるその処置をひどく悲しみ、夕霧本人も子ども心に憂鬱な気持ちになりました。ダメな息子であれば勉強なんてするものか、と反抗するところでしょうが、さて、この少年はどうするのでしょうか。

字(あざな)つくることは東の院にてしたまふ。東の対をしつらはれたり。上達部、殿上人、珍しくいぶかしきことにして我も我もと集ひ参りたまへり。博士どももなかなか臆しぬべし。「憚るところなく、例あらむにまかせて、なだむることなく厳しうおこなへ」 と仰せたまへば、しひてつれなく思ひなして、家より他に求めたる装束どもの、うちあはず、かたくなしき姿などをも恥なく、面もち、声づかひ、むべむべしくもてなしつつ、座に着き並びたる作法よりはじめ、見も知らぬさまどもなり。

字をつけることは、二条の東の院でなさる。東の対を式場として準備なさった。上達部、殿上人はめったにないことでどういうものだろうかと思って我も我もと参集なさった。博士たちもかえって気後れしてしまうであろう。「遠慮することなく、慣例があろうからそれに従って手加減せずに厳格にしてくれ」とおっしゃるので、無理に平然としたようすをして、自分の家でないところから用意した装束がうまく合わず、みっともない姿なども恥とせず、顔つきや声の出し方を格式正しくふるまいながら、着座して並んでいる作法をはじめとして見たこともないようなありさまである。

当時は中国の例にしたがって、本名のほかに名乗る字(あざな)を持つことがありました。特に大学の学生(がくしやう)となった場合は古くから付けられるのが慣例で、例えば橘広相は「朝綾」、藤原菅根は「右生」という具合でした。やがて、姓の一字(藤原氏なら「藤」、小野氏なら「野」、菅原氏なら「菅」、大江氏なら「江」など)と、もう一文字の漢字をもって「字(あざな)」とするようになりました。紀長谷雄は「紀寛」、源扶義は「源叔」という具合です。おそらく夕霧も「源★」と名乗ったのでしょう。その命名の儀式を、花散里の住む二条東院の東の対でおこなうことになりました。上流貴族の子弟が大学に入学するなどめったにないことなので、いったいどういうことになるのかと、多くの上達部や殿上人がやってきました。文章博士たちはさぞかし緊張することでしょう。光源氏は、彼らに向かって、遠慮せずにしきたりどおりに儀式をおこなってほしいというのですが、何しろ最高級の家柄での儀式ですから、荷が重く感じられたことでしょう。そのあとに「家よりほかに求めたる装束」とありますが、博士と言っても貧しいので、装束は借り物なのです。そうなると、サイズも合わず不細工ですらあります。それでも博士というのは格好をつけたがるもので、いかにも子細ありげな様子で参列しています。当時の博士はもっとも高い地位の文章博士でさえ従五位下相当。明経博士は正六位下相当、明法博士は正七位下相当、算博士に至っては従七位上相当という身分で、生活も貧しかったのです。もっとも、大学の教員が貧しいのは今も同じことですが。

若き君達は、え堪へずほほ笑まれぬ。さるは、もの笑ひなどすまじく、過ぐしつつ静まれる限りをと、選り出だして、瓶子なども取らせたまへるに、筋異なりけるまじらひにて、右大将、民部卿などの、おほなおほな土器とりたまへるを、あさましく咎め出でつつおろす。「おほし、垣下あるじ、はなはだ非常に はべりたうぶ。かくばかりのしるしとあるなにがしを知らずしてや、朝廷には仕うまつりたうぶ。はなはだをこなり」など言ふに、人びと皆ほころびて笑ひぬれば、また、「鳴り高し。鳴り止まむ。はなはだ非常なり。座を引きて立ちたうびなむ」など、おどし言ふも、いとをかし。

若い君達はこらえきれずについ微笑んでしまう。とはいえ、笑ったりはしないでいるような落ち着いた者ばかりをと選び出して瓶子を取らせて酌をさせたりなさるのだが、いつもと違った宴なので右大将、民部卿などが何の遠慮もなく盃をお取りになるのを、博士たちがあきれるほどに咎めだてしてこき下ろしている。「およそ垣下」(かいもと、ゑんが。饗宴の相伴役のこと)の方々はまったく非常識でいらっしゃいます。このように著名な私をご存じでなく、朝廷にお仕えしていらっしゃいますのか。はなはだ愚かなこと」などと言うので、人々が皆吹き出して笑ったところ、「騒がしいこと。静粛になされませ。はなはだ非常識だ。座をお立ちいただきましょう」などと脅すように言うのもとてもおもしろい。

この場面は世間知らずの学者のプライドばかり高いようすがおもしろく描かれています。先ず言葉遣いですが、「おほし」「はなはだ」「非常」「たうぶ」「垣下」「しるし」「鳴り高し」など学者独得の表現をしています。いずれも漢文訓読調であったり、古風な言い方であったりします。「鳴り高し」は現代でいうと教室で教師がおしゃべりをしている学生に向かって「静かにしなさい」と言っているような感じです。作者はあえてこういう表現を用いて、一般の貴族から見ると「学者バカ」にしか見えない彼らの姿を描いているのです。さらに博士たちは右大将(従三位相当)や民部卿(正四位下相当)のお歴々に対してもえらそうな口をききます。から威張りとしか聞こえないのに、当の本人は真剣に声を挙げているのです。それがまた貴族たちにとっては滑稽に聞こえるのです。実に生き生きとした描写だと思います。貧乏学者のくせに(笑)偉そうに発言する人は今も昔も変わらずにいるのですね。なお、右大将はかつての頭中将です。

見ならひたまはぬ人びとは、珍しく興ありと思ひ、この道より出で立ちたまへる上達部などは、したり顔にうちほほ笑みなどしつつ、かかる方ざまを思し好みて、心ざしたまふがめでたきことと、いとど限りなく思ひきこえたまへり。いささかもの言ふをも制す。なめげなりとても咎む。かしかましうののしりをる顔どもも、夜に入りては、なかなか今すこし掲焉(けちえん)なる火影(ほかげ)に、猿楽(さるがう)がましくわびしげに、人悪げなるなど、さまざまに、げにいとなべてならず、さまことなるわざなりけり。

見慣れていらっしゃらない人たちは、珍しく興味深いことと思って、また、大学の道から立身なさった上達部などは得意顔でほほえんだりしながら、学問の方面のことを源氏の大臣が好ましくお思いになって、この道にご子息を進ませなさろうとこころざされたことをご立派なことだと、いっそうこのうえないこととおほめ申し上げる。博士たちは少しでもものを言うと制する。無礼だと言って咎める。やかましく大声をあげている博士たちの顔も、夜に入るとかえってはっきりと見える火影に映えて道化のようだったり、わびしげだったり、体裁の悪いようすであったりなど、さまざまにまったく尋常でなく、異様なのであった。

引き続き、博士たちの滑稽なまでの様子が描かれます。こういうありさまを見馴れていない人は物珍しげで、また大学寮出身の上達部は普段はあまり大きな顔ができないのに、ここぞとばかりに得意顔をしています。大学寮を出ているということは学問だけで成り上がってきた大江氏や菅原氏出身の上達部でしょう。普段は藤原氏の大臣や大納言に牛耳られているだけに、こういう場は馴れたものですから、得意げなのです。そして光源氏が夕霧を大学に入れてくれたことで自分たちと同じ経歴になること(実際はすぐに追い抜かれるわけですが)が嬉しいのでしょう。このあたりも実に生き生きとした描写です。博士たちは相変わらず、おしゃべりをする人を制したり無礼者扱いしたりしています。そしてその顔が夜に入って灯火のために昼間よりはっきり見えるのですが、これが実に体裁の悪いもので作者は「さま異なるわざ(異様な雰囲気)」とまで言っています。今でも、学者はビジネスマンの人たちから見ると異様な雰囲気を持っているかもしれません。何年前につくったスーツなのかわからないのを着て、ネクタイのデザインもセンスがなくシャツは皺だらけ・・・などということが珍しくないでしょう。

大臣は、「いとあざれ、かたくななる身にて、けうさうしまどはかされなむ」とのたまひて、御簾のうちに隠れてぞ御覧じける。数定まれる座に着きあまりて、帰りまかづる大学の衆どもあるを聞こしめして、釣殿の方に召しとどめて、ことに物など賜はせけり。

源氏の大臣は「ひどくだらしなく、それが改められない私はこっぴどく叱られてしまうでしょう」とおっしゃって、御簾の中に隠れてご覧になっていた。座の数が決まっているので着席できなくて帰って行く大学の学生たちがいるのを源氏の大臣はお聞きになって、釣殿のほうに呼びとどめなさって、特に引き出物などをお与えになった。

光源氏はその様子を見て「自分のようにだらしない者はひどく叱られそうだ」と冗談を言います。しかも注意したいのは、この冗談の中に「けうさう」という言葉が出てくることです。「けうさう」は「喧噪(けんそう)」のことと考えられ、あまり用いられない言葉です。本居宣長は『玉の小櫛』の中で「たはぶれてことさらに儒者詞をつかひたまふと聞こえたり(ふざけてわざと学者言葉をお使いになるのであろう)」と言っています。光源氏は戯れに学者の真似をしたのです。そんな光源氏ですが、居場所がなくて帰ろうとする学生たちには気を使って、釣殿(寝殿作りのいちばん南の端にあたる、池に面したところ。夏にはここで涼んだりする)に集めて接待し、きちんと引き出物を与えるのです。こういうところはさすがによく気が付く人です。席のなかった学生たちも感激したことでしょう。

事果ててまかづる博士、才人ども召して、またまた詩文作らせたまふ。上達部、殿上人も、さるべき限りをば皆とどめさぶらはせたまふ。博士の人々は、四韻(しゐん)、ただの人は、大臣をはじめたてまつりて、絶句作りたまふ。興ある題の文字選(え)りて、文章博士たてまつる。短きころの夜なれば、明け果ててぞ講ずる。左中弁、講師(かうじ)仕うまつる。容貌(かたち)いときよげなる人の、声づかひものものしく、神さびて読み上げたるほどおもしろし。おぼえ心ことなる博士なりけり。

儀式が終わって退出する博士や才能ある学者をお召しになって、またまた詩をお作らせになる。上達部、殿上人もその方面に能力のある人はみな呼び止めてその場に同席させなさる。博士たち学者は五言律詩、それ以外の人は大臣をはじめとして絶句をお作りになる。興趣のある題の文字を選んで文章博士が献じる。短夜のころなので、夜がすっかり明けてから披講する(読みあげて披露する)。左中弁が講師をお務めする。顔立ちのたいそうきれいな人で、声の使い方も堂々として神々しいようすで読み上げたのはとてもすばらしい。世評も格別な学者なのであった。

儀式が終わるとその名残で漢詩の会が行われます。学者側は四韻、つまり四つの韻を踏む詩を作ります。これは八句から成る五言律詩です。七言律詩は初句にも韻を踏むので四韻とは言いません。一方、それ以外の、いわば素人たちは比較的作りやすい絶句を詠みました。詩の題は文章博士が考えました。夜が明けて、作品を読み上げますが、その担当者である講師は左中弁(学者出身)が担当しました。この人は講師にふさわしく、容貌もよく、声も美しいのです。今で言うなら人気歌手のようなものでしょうか。

かかる高き家に生まれたまひて、世界の栄花にのみ戯れたまふべき御身をもちて、窓の螢をむつび、枝の雪を馴らしたまふ心ざしのすぐれたるよしを、よろづのことによそへなずらへて、心々に作り集めたる、句ごとにおもしろく、唐土(もろこし)にも持て渡り伝へまほしげなる夜の詩文どもなり、となむそのころ世にめでゆすりける。大臣の 御(おほむ)はさらなり。親めきあはれなることさへすぐれたるを、涙落として誦(ず)じ騷ぎしかど、女のえ知らぬことまねぶは憎きことをと、うたてあれば漏らしつ。

(夕霧は)このように高貴な家柄にお生まれになって、世の栄華に耽ってばかりいることもできる御身でありながら、窓の蛍、枝の雪を友とする学問の道を志すことがどれほどすぐれたことであるのかを、さまざまな故事になぞらえて思い思いに作り集めたのだが、どの句もおもしろく、唐土に持って行って伝えたくなるような作品ばかりだと、その当時、世間でほめそやしたのであった。大臣の御作は言うまでもなく、親らしいしみじみとした心まで優れて詠まれているのを感涙にむせびながら吟じたのだが、女の私が理解できるはずもないことを書くのは憎らしいことだと嫌な感じになるので書き洩らした。

人々によって詠まれた詩の内容は、高貴な家柄に生まれながらも刻苦勉励する道を選んだ夕霧を礼賛する内容で、故事を踏まえたものでした。車胤の「窓の蛍」の故事、孫康の「枝の雪」の故事は、いわゆる「蛍雪の功」のことです。そして光源氏の作品は、親心も交えてのものだけに、人々の涙を誘うものでした。最後に「女のえ知らぬこと・・」とあるのは、当時の女性は漢詩には詳しくない(少なくともそういう建前であった)ので、生意気なことを書いては嫌な女だと思われそうなので、書き洩らした、という作者(語り手)の言葉です。

うち続き、入学といふことせさせたまひて、やがて、この院のうちに御曹司作りて、まめやかに才(ざえ)深き師に預けきこえたまひてぞ、学問せさせたてまつりたまひける。大宮の御もとにも、をさをさ参(ま)うでたまはず。夜昼うつくしみて、なほ児(ちご)のやうにのみもてなしきこえ たまへれば、かしこにてはえもの習ひたまはじとて、静かなる所に籠(こ)めたてまつりたまへるなりけり。「一月(ひとつき)に三度ばかりを参りたまへ」とぞ、許しきこえたまひける。

引き続いて入学の礼という儀式をおさせになって、そのままこの院(二条東院)の中にお部屋を作って学才の深い師にお預け申し上げなさって真剣に学問をおさせになった。大宮(夕霧の母方の祖母)のところにもほとんど参上なさらない。(大宮は)これまで夜も昼もかわいがって、今なお(夕霧を)子どものようにお世話なさろうとするので、あちらでは学問などおできにならないだろうというので、静かなところに閉じこめなさったのであった。一か月に三回くらいだけは参上しなさいとお許し申し上げなさった。

次に入学の礼というのをおこないます。師弟関係が結ばれ、師には謝礼を贈ります。そして、花散里が住んでいるこの二条東院に夕霧が学問する部屋を設けます。祖母の大宮はこれまでも夕霧を目の中に入れても痛くないようなかわいがりかたをしてきましたので、そちらに置くと甘やかすことになりかねないという判断です。光源氏の厳しい教育方針は徹底しています。そして祖母を訪ねるのは月に三回と決められます。

つと籠もりゐたまひて、いぶせきままに、殿を、つらくもおはしますかな。かく苦しからでも、高き位に昇り、世に用ゐらるる人はなくやはある、と思ひきこえたまへど、おほかたの人柄まめやかに、あだめきたるところなくおはすれば、いとよく念じて、いかでさるべき書(ふみ)どもとく読み果てて、交じらひもし、世にも出でたらむ、と思ひて、ただ四五月(よつきいつつき)のうちに、『史記』などいふ書は読み果てたまひてけり。

(夕霧は)そこにじっと籠っていらっしゃって、気が晴れないままに、殿(光源氏)を、つらい仕打ちをなさるものだ。こんなに苦しい思いをしなくても高い位に昇り、世間で重用される人がないわけではないだろうに、とお恨みになるが、この人はおよそ人柄がまじめでうわついたところはなくていらっしゃるので、ほんとうによく辛抱なさって、何とかして読まねばならない書物を早くに読み終えて官人の仲間入りをして出世しようと思って、わずか四、五か月のうちに『史記』などという書物はすっかり読んでおしまいになったのであった。

夕霧はさすがに父の仕打ちをひどいと思うのです。世の中には楽をして出世する人間がいくらでもいるではないか、なっぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないのか、と。その気持ちはなるほどよくわかります。今の世でも、政治家になると思って一生懸命勉強している人の目から見ると、親が政治家というだけで、本人はろくに勉強もせずに地盤を受け継いで悠々と選挙に勝ち、また若いうちに要職に就くこともできる。そういう理不尽を紫式部はよりによって正解の第一人者の息子の気持ちとして表現していることになります。しかし夕霧はここで腐ってしまうかというとそうではありません。根がまじめなのです。この「まめやか」なところは夕霧の性質としてこれからもしばしばよくも悪しくも描かれていきます。彼は人一倍努力をして、読まなければならない書物、つまり試験に出るようなものについては早く読み終えて試験を突破して出世しようと考えます。今で言うなら国家試験のようなものでしょう。そして、司馬遷の『史記』百三十巻を四、五か月のうちに読破してしまうのです。

今は寮試受けさせむとて、まづ我が御前にて試みさせたまふ。例の大将、左大弁、式部大輔、左中弁などばかりして、御師の大内記を召して、『史記』の難き巻々、寮試受けむに、博士のかへさふべきふしぶしを引き出でて、ひとわたり読ませたてまつりたまふに、至らぬ句もなく、かたがたに通はし読みたまへるさま、爪じるし残らず、あさましきまでありがたければ、さるべきにこそおはしけれと、誰も誰も涙落としたまふ。大将はまして「故大臣おはせましかば」と、聞こえ出でて泣きたまふ。

もう寮試を受けさせようというので、まず源氏の大臣の御前で試験の予行をおさせになる。例によって大将(夕霧のおじ。もとの頭中将)、そのほか左大弁、式部大輔、左中弁などだけで、師の大内記をお呼びになって『史記』の難しい巻々について、寮試を受けた場合文章博士が反問してくるようなところどころを取り出して、ひととおりお読ませになったところ、いいかげんなところもなく、音訓自在にお読みになるありさまと言ったら、爪じるし(あやふやなところに爪で印をつけること)も残らず、驚くほどたぐいまれな成績でいらっしゃるので、こういう素質でいらっしゃったのだ、と誰もが感涙を落とされたのである。大将はまして「亡き大臣(大将の父、夕霧の母方の祖父)がご存命ならば」と言い出してお泣きになる。

順調に勉学が進んでいるので早くも夕霧に寮試を受けさせようということになります。寮試というのは「大学寮試」のことで、これに合格すると擬文章生(ぎもんじょうしょう)になります。このあとさらに式部省試に合格すると文章生になるのです。まずは光源氏の前で模擬試験をしてみようということになります。右大将はもちろんのこと、左大弁、式部大輔、左中弁といった学問のできる人たちを呼びます。そして夕霧の師匠の大内記(学者で文章の巧みな者が任ぜられる中務省の役人。身分は低く、正六位上相当)を招いて、『史記』の難解なところなどを試験で問い詰められそうなところについて読ませるのですが、これが見事で、問題のありそうなところを爪で印をつけるまでもないのです。右大将はもし亡き父がいればどれほど喜ぶだろう、と思います。

殿も、え心強うもてなしたまはず、「人のうへにて、かたくななりと見聞きはべりしを、子のおとなぶるに、親の立ちかはり痴れゆくことは、いくばくならぬ齢ながら、かかる世にこそはべりけれ」などのたまひて、おし拭ひたまふを見る 御師の心地、うれしく面目ありと思へり。大将、盃さしたまへば、いたう酔ひ痴れてをる顔つき、いと痩せ痩せなり。世のひがものにて、才のほどよりは用ゐられず、すげなくて身貧しくなむありけるを、御覧じ得るところありて、かくとりわき召し寄せたるなりけり。身に余るまで御顧みを賜はりて、 この君の御徳に、たちまちに身を変へたると思へば、まして行く先は、並ぶ人なきおぼえにぞあらむかし。

殿もこらえることがおできにならず、「他人のこととして見苦しいものだと見聞きしていたのですが、子が成長して親がそれに代わるように愚かになっていくのは、私はまだそれほどの歳でもないが、こういうのが世のならいだったのですね」などとおっしゃって、涙を拭っていらっしゃるのを見る師(大内記)の気持ちとしては、うれしく面目を施したと思っている。大将が盃をおさしになるのですっかり酔っぱらっている師の顔つきは、ひどく痩せこけている。この人はひねくれもので、学才の豊かさに比べて重用されず、人付き合いもできず、貧しいのであったが、大臣のめがねにかなってこうしてわざわざお召し寄せになったのである。身に余るほどの恩顧をちょうだいして、この君のおかげであっというまに生まれ変わったようになったことを思うと、まして将来は並ぶ人もないほどの世評を受けることになるだろう。

光源氏は、これまで子が立派になって親が愚かになっていくのを見てきて、見苦しく感じていたので、自分がそうなるということはこれが世間の常識なのだと思い知ったと言います。光源氏、このときまだ三十三歳です。こうして弟子の見事な成長を目の当たりにした大内記は面目を保つことができました。盛んに右大将から盃を進められるのですっかり酔ってしまったのですが、その風貌はいかにも貧相な学者風なのでした。学者というのは、学問はあってもなかなか出世もできず、生活もままならないのです。しかもこの大内記はひねくれもので世間づきあいも得意ではない人だったのですが、光源氏が見出したことによってこのような名誉を受けることになったのです。まして将来夕霧がもっと立派になったら「夕霧の師」として声望が高まることは必定です。

大学に参りたまふ日は、寮門に、上達部の御車ども数知らず集ひたり。おほかた世に 残りたるあらじと見えたるに、またなくもてかしづかれて、つくろはれ入りたまへる冠者の君の御さま、げに、かかる交じらひには堪へず、あてにうつくしげなり。例の、あやしき者どもの立ちまじりつつ来ゐたる 座の末をからしと思すぞ、いと ことわりなるや。ここにてもまた、おろしののしる者どもありて、めざましけれど、すこしも臆せず読み果てたまひつ。

大学寮に参上なさる日は寮の門に上達部の御車が数知れないほど集まった。およそ世間に残ってい人はあるまいと見えるのだが、この上なく大切にされて世話を受けながらお入りになる冠者の君(元服したばかりの君。夕霧)のご様子は、なるほどこのような学生たちの仲間入りをするにはふさわしくないほど上品でかわいらしいようすである。例によってみすぼらしい者どもがごちゃごちゃとやってきて席に着いている座の末席に着くのをつらいとお思いになるのはまったく道理というものである。ここでもまた大きな声で叱り飛ばしている者共がいて不愉快なのだが、少しも臆することなく最後まですっかりお読みになった。

寮試を受けるために夕霧が大学にやってきました。その日は上達部たちがもう誰も残っていないだろうと思われるくらい集まってきました。「たかが」寮試があるだけなのに、大騒ぎと言えるでしょう。夕霧の立派なようすはほかの学生とは比較になりません。「かかるまじらひにはたへず」というところに、『岷江入楚』は「あやしきさましたる学生ともの中へ夕霧の不相応なると也」と注を施しています。字(あざな)を着ける儀式のときと同じように学者が偉そうにしています。何かがあるとすぐに怒鳴りつける者もいるのですが、夕霧は何の気後れもせずにすらすらと難しい文を解読していきます。

昔おぼえて大学の栄ゆるころなれば、上中下の人、我も我もと、この道に志し集れば、いよいよ、世の中に、才ありはかばかしき人多くなむありける。 文人擬生などいふなることどもよりうちはじめ、すがすがしう果てたまへれば、ひとへに心に入れて、師も弟子も、いとど励みましたまふ。殿にも、文作りしげく、博士、才人ども所得たり。すべて 何ごとにつけても、道々の人の才のほど現はるる世になむありける。

昔の良き時代を思わせる大学の栄えているころなので、身分の上下を問わず、我も我もとこの道を志望して集まってくるので、いっそう世の中には学才のある有能な人が多く輩出するのであった。擬文章生などとかいう試験をはじめ、すんなりと合格なさったので、あとはひたすら熱心に、師(大内記)も弟子(夕霧)もいっそう励みなさるのである。光源氏邸(二条院)でも漢詩の会がしばしばおこなわれて博士や詩才のある者どもは得意になっている。すべてなにごとにつけても、それぞれの学問の道の才が認められる世なのであった。

平安時代初期には大学はずいぶん重んぜられていたようで、このころはその往時に勝るとも劣らない学問の隆盛する時だというのです。それだけに、大学の門をたたく人が多く、学才豊かな人が世に出ています。夕霧は、寮試などはあっさり合格してその後はさらに勉学に励みます。光源氏も漢詩の会を催すなど学問に熱心なので、博士たちは自信満々の顔をしています。学問の栄える時代というのは聖代ともいえる時期なのです。ちなみに、紫式部の父藤原為時も文章生出身の学者官僚です。

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