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源氏物語「少女」(7) 

夕霧と雲居雁はとうとう引き離されてしまいました。若い頃は、こういう目に遭ったらもはや夢も希望もないかのように絶望しがちなものです。彼らはこれ以後どうなるのか、読者にとっての関心事はいったん先延ばしにされることになります。一連の出来事について、光源氏はまったく関知しませんでしたが、当時子どもというのがいかに母方との縁が濃いかがよくわかるようにも思えます。夕霧は光源氏と葵の上の子ですが、ここで登場したのは母方の祖母(故太政大臣の妻。葵の上の母)の大宮、葵の上の兄弟(通説では兄)の内大臣、内大臣の娘の雲居雁、ということで、故太政大臣家の中の出来事として描かれていることになります。一方、光源氏と夕霧の関係は、公的な面(官位や教育については光源氏が決めていました)では親密でも、プライベートな生活ではかなり希薄な関係なのです。それにしても官位を六位(貴族とは認められない官位)にとどめられ、恋愛はうまくいかず、若き夕霧にとっては公私ともに鬱屈するほかはない悲惨な青春期を送ることになります。
さて、話は光源氏の周辺に戻ります。今の勤労感謝の日の由来となった新嘗祭(天皇即位の年は大嘗祭)は旧暦の十一月におこなわれました。その祭に彩を添えるのが五節の舞姫です。「天つ風雲の通ひ路吹き閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ」(古今和歌集・良岑宗貞)は『百人一首』では宗貞の出家後の名前である「遍照」の作となっていますが、これは彼がまだ在俗のときに五節の舞姫を見て詠んだ歌です。江戸時代の川柳は「遍照が乙女に何の用がある(出家している遍照が若い女性に何の用があるのか。興味を持つのはおかしいじゃないか)」と皮肉なことを言いますが、実際は出家前でしたので、まだ乙女に用があったのです(笑)。

大殿には、今年、五節たてまつりたまふ。何ばかりの御いそぎならねど、わらはべの装束など近うなりぬとて急ぎせさせたまふ。東の院には、参りの夜の人びとの装束せさせたまふ。殿には、おほかたのことども、中宮よりも、童(わらは)、下仕への料(れう)など、えならでたてまつれたまへり。過ぎにし年、五節など止まれりしが、さうざうしかりし積もり取り添へ、上人(うへびと)の心地も常よりもはなやかに思ふべかめる年なれば、所々いどみて、いといみじくよろづを尽くしたまふ聞こえあり。按察使大納言(あぜちのだいなごん)、左衛門督、上(うへ)の五節には、良清(よしきよ)、今は近江守にて左中弁なるなむ、たてまつりける。皆止めさせたまひて、宮仕へすべく、仰せ言ことなる年なれば、娘をおのおのたてまつりたまふ。

源氏の大殿は、今年五節の舞姫を差し上げなさる。とりたててのご準備というのではないが、童女の装束などを、時期も迫ったというので急いでお作らせになる。二条東院では参入の夜(中の丑の日)の付き添いの人たちの装束を作らせなさる。二条院では全体的なこと、中宮からは童女や下仕えの装束などをなみなみならず用意して献上なさった。昨年は五節などが差し止めになったのが物足りなかったので、その気持ちも加わって殿上人も例年よりはなやかに思っているような年なので、(舞姫を出す)家それぞれが競い合って、実にすばらしい善美をお尽くしになるという評判である。按察使大納言、左衛門督、殿上人の五節としては、今は近江守で左中弁の良清が差し上げた。みな、内裏におとどめになって宮仕えするようにという仰せごとのある年なので、娘をそれぞれ差し上げなさる。

光源氏が今年は五節の舞姫を差し出すことになりました。五節の舞姫は新嘗祭(天皇が交代した最初の年は大嘗祭)の花形ですが、大嘗祭のときの舞姫は位が授けられたのに新嘗祭ではそれがなく、いきおい舞姫になることを希望する人も少なかったそうです。しかしここでは前年が中止だった(天皇の母である藤壺中宮が亡くなったため)ことに加えて、すべての舞姫に宮仕えするようにとの仰せがあったため、華やぎのある五節になるのです。
十一月の中の丑の日(二番目の丑の日)に五節の舞姫が内裏の常寧殿に置かれた「五節所」に入ります。その日は天皇が常寧殿まで出向いて舞を見ます(いわば予行演習)。これを「帳台試(ちやうだいのこころみ)」といいました。翌日の寅の日には「御前試(ごぜんのこころみ)」といって、清涼殿で天皇が舞を見ました。この日の夜には「殿上の淵酔(てんじやうのゑんずい)」という、酒宴が清涼殿でおこなわれました。さらに翌日の卯の日には天皇が五節の舞姫の介添えをする童女を見る「童女御覧」がありました。また、この日が新嘗祭でした。そして翌日の辰の日には天皇が豊楽殿または紫宸殿に出御して新穀の膳が供される(天皇が食べる)「豊明節会(とよのあかりのせちゑ)」がありました。このときに国栖奏(くずのそう。くにすのそう。「国栖」は土着の人のこと。独特の歌や楽器の演奏)や五節の舞が披露されたのです。四日間にわたる儀式ですが、五節の舞姫や介添え役の童女はずっと緊張した日々を送り、中には体調を崩す人もあったほどです。
その準備として、二条東院、つまり花散里のところで、付き添いの女房の装束、二条院では全体的な準備、中宮からは童女や下仕えの装束と分担して用意させるのです。花散里はこういうことは得意ですね。ここで花散里、紫の上、秋好中宮が登場しますが、この三人は後の六条院の主要なメンバーです(あと一人は明石の君)。光源氏にとって最も重要な女性たちなのでしょう。
四人の舞姫を出すのは光源氏のほかは、按察使大納言(雲居雁の母の現在の夫)、左衛門督(内大臣の異母弟)、良清でした。良清は若紫巻に初登場する人物ですが、明石巻では「少納言」、澪標巻では「靫負佐(ゆげひのすけ)」として名が挙がります。「上の五節」というのは殿上人(公卿ではない)ということで、彼が受領(国司)として舞姫を出すことを言うのです。「近江守にて左中弁なる」とありますが、普通は「左中弁が近江守を兼ねる」のであって、「近江守が左中弁を兼ねる」のではありません。しかしここでは「近江守」を先に書いています。あるいはこれは受領として五節を出すからこのように書いたのかもしれません。

殿の舞姫は、惟光朝臣の、津守(つのかみ)にて左京大夫かけたるが娘、容貌(かたち)などいとをかしげなる聞こえあるを召す。からいことに思ひたれど、「大納言の、外腹の娘をたてまつらるなるに、朝臣のいつき娘出だし立てたらむ、何の恥かあるべき」とさいなめば、わびて、同じくは宮仕へやがてせさすべく思ひおきてたり。舞習はしなどは、里にていとよう仕立てて、かしづきなど親しう身に添ふべきはいみじう選(え)り整へて、その日の夕つけて参らせたり。

殿の舞姫は摂津守で左京大夫を兼任する惟光朝臣の娘で、容貌がとてもかわいらしいという評判の者をお召しになる。(惟光は)困ったことだと思ったのだが、「(按察使)大納言殿が外腹の娘を差し上げられるそうだから、あなたが大切な娘を差し出したとして何の恥ずかしいことがあるでしょう」との責め立てに困惑して、いっそそのまま宮仕えさせるようにしようと決心した。舞を習わせたりするのは自邸でしっかり仕上げて介添えの者など近くに付き添うはずの者は厳選して当日の夕方に参らせた。

五節の舞姫は公卿から二人、受領から二人の舞姫を出すことになっています。先に按察使大納言、左衛門督、近江守良清が出すことが書かれていましたが、この三人では受領の舞姫が一人足りません。そこで、惟光の娘が受領の娘として差し出されたのだ、というのが一般的な説で、この場合、光源氏は後援者に過ぎないという考え方です。たしかに、「津守(摂津守)にて左京大夫かけたる」という書き方は、左京大夫(従四位下相当)が本官で摂津守(従五位下相当)を兼任しているのに、摂津守を前に出しているところは(先述の良清と同様に)受領であることを強調しているように見えます。ただ、そういう場合に「殿の舞姫」という言い方をするものだろうかという疑問は残ります。「按察使大納言は外腹(妾腹の子)とはいえわが娘を出すのだから、そなたの娘を出すのは恥ずかしいことではない」という言い方を考えると、これはあくまで光源氏の舞姫として出すという考え方ではないかと思えるのです。舞姫を出すと言っても、自分の娘である必要はないのです。『枕草子』にも中宮が舞姫を出すという話が出てきますが、このときの舞姫は右馬頭源相尹の娘でした。惟光が困ったことだと思ったのは、良清のように自分の娘を自分が出すならともかく、光源氏の舞姫として出すのは過分だと思ったのではないでしょうか。「大納言の、外腹の」の言葉は誰の言葉でしょうか。周囲の人が言ったことでしょうか。これは光源氏が惟光を責め立てたのだと思います。「さいなむ」には敬語が付いていませんが、この言葉は上位の者が下位の者を責め立てるということなので、敬語が付かないこともあります。「(天皇は)馬の命婦をもさいなみて」(『枕草子』「うへにさぶらふ御猫は」)などがその例です。惟光はしぶしぶこのかわいらしい娘を出すことにします。そして、内裏に入る日の夕方に光源氏の邸に連れて行くのです。あくまで光源氏の出す舞姫だからでしょう。

殿にも、御方々の童(わらは)、下仕へのすぐれたるをと御覧じ比べ、選り出でらるる心地どもは、ほどほどにつけて、いとおもだたしげなり。御前に召して御覧ぜむうちならしに、御前を渡らせてと定めたまふ。捨つべうもあらず、とりどりなる童女の様体(やうだい)、容貌(かたち)を思しわづらひて、「今ひと所の料(れう)をこれよりたてまつらばや」など笑ひたまふ。ただもてなし用意によりてぞ選びに入りける。

二条院でも、御方々の童女や下仕えの者で器量のすぐれた者をとお見比べになったのだが、選び出された者の気持ちとしては、分相応に面目躍如なのである。帝の御前にお召しになってご覧になるのに慣らせるために、殿の御前を歩かせようとお決めになる。捨てがたいものばかりの童女の姿態や容貌なので選びかねなさって、「もう一人の舞姫の介添えをここからさしあげたいものだな」などとお笑いになる。ただ身のこなしや気配りのしかたによって選に入ったのであった。

舞姫に付ける介添え役の者も器量よしがいいのです。それらを「御方々」の童女などから選びます。「御方々」は光源氏の周りの女性たちのことですから、具体的には紫の上、花散里、あるいは秋好中宮も含まれるかもしれません。そこに仕える童女や下仕えから選抜するのです。それだけに選ばれるのは名誉でもあるわけです。帝がお召しになって童女を見るというのは先述の「童女御覧」のことです。その予行演習として光源氏の前でオーディションをするのです。この童女御覧はかなり緊張するもので、「(童女)御覧の日の童の心地どもはおろかならざるものを」(『紫式部日記』)と言われるほどです。いずれ劣らぬ器量よしなので、別の舞姫の童女としてもいいくらいだとご満悦の光源氏は冗談を言います。「料」というのは「あらかじめ用意されたもの」というほどの意味で、ここでは別の舞姫のための童女」ということです。最後の決め手となったのは、容貌ではなく、身のこなしや舞姫を助ける気配りができるかどうかだったというのです。

大学の君、胸のみふたがりて、物なども見入れられず、屈(くむ)じいたくて、書(ふみ)も読までながめ臥したまへるを、心もや慰むと立ち出でて紛れありきたまふ。さま、容貌はめでたくをかしげにて、静やかになまめいたまへれば、若き女房などは、いとをかしと見たてまつる。上の御方には、御簾の前にだに、もの近うももてなしたまはず。わが御心ならひ、いかに思すにかありけむ、うとうとしければ、御達(ごたち)なども気遠きを、今日はものの紛れに入り立ちたまへるなめり。

大学の君(夕霧)は胸が詰まるばかりで何も目に入れることもできず、ひどく鬱屈して書物も読まずにぼんやりとして臥していらっしゃるのを、心が慰むかもしれないと思って目立たないように外出なさる。そのお姿や容貌はご立派で美しくて、おちついて優艶でいらっしゃるので、若い女房たちはなんてすてきな方でしょう、と拝見する。紫の上のいらっしゃるところには、御簾の前にすら近づけることはおさせにならない。ご自分のお心の癖があるので、どうお考えなのか、疎遠に扱われるので、そちら(紫の上側)の女房たちも親しみがないのだが、今日は(舞姫参入の)紛れに乗じてお入りになったのであろう。

悩める少年の再登場です。勉強も手につかずに憂鬱な日々を過ごしている夕霧は、気が紛れるかもしれないと思って二条院にさりげなく入って行きます。しかし紫の上のいる西の対には光源氏の考えで一切近づけないのです。光源氏は自分が義理の母である藤壺中宮と密通した経験があるため、夕霧と紫の上に何かあってはならないと思うのです。このとき夕霧は十二歳で、紫の上は光源氏より十歳若いと考えると二十三歳です。しかしこの日は舞姫参入のために何かとあわただしく、人が注意を払っていない隙に、夕霧は西の対に入り込んでいきます。

舞姫かしづきおろして、妻戸の間(ま)に屏風など立てて、かりそめのしつらひなるに、やをら寄りてのぞきたまへば、悩ましげにて添ひ臥したり。ただ、かの人の御ほどと見えて、今すこしそびやかに、様体などのことさらび、をかしきところはまさりてさへ見ゆ。暗ければこまかには見えねど、ほどのいとよく思ひ出でらるるさまに、心移るとはなけれど、ただにもあらで、衣(きぬ)の裾を引き鳴らいたまふに、何心もなく、あやしと思ふに、
「天(あめ)にます豊岡姫の宮人も
   わが心ざすしめを忘るな
みづがきの」とのたまふぞうちつけなりける。若うをかしき声なれど、誰ともえ思ひたどられず、なまむつかしきに、化粧(けさう)じ添ふとて、騷ぎつる後見(うしろみ)ども、近う寄りて人騒がしうなれば、いと口惜しうて、立ち去りたまひぬ。


舞姫を大切に(車から)降ろして妻戸の間(ま)に屏風などを立ててかりそめの設備にしてあるのだが、そこにそっと近づいてお覗きになると、疲れたようすでものによりかかって臥している。ちょうどあの方(雲居雁)とおなじくらいの年かっこうに見えて、もう少し背が高く、姿はことさら美しくしていて魅力的なところはあの方にまさって見える。暗いので細かいところは見えないが、全体的にあの方を思い出させるようなありさまで、心移りするわけではないが、心中穏やかでなく、衣の裾を鳴らしなさると、何のことかもわからず妙だなと思っているところに、
  「天にいらっしゃる豊岡姫に仕える
あなたですが、私が思いを寄せて注
連を張っている(わがものと思って
いる)ことを忘れないでください。
ずっと昔からお慕いしていました」とおっしゃるのもあまりに唐突なのであった。若々しく美しい声ではあるが、考えても誰なのかもわからず、薄気味悪いとおもっているところに、もう少し化粧しようというので、騒いでいた介添えの者たちが近くに来て騒がしくなったのでとても残念に思いながらお立ち去りになった。


「妻戸」は建物の四隅にある両開きの戸です。そこに屏風を立ててほんのかりそめの控室のようにしているのです。夕霧はそこに近づいて隙間から中をのぞくと、舞姫は早くも疲れて横になっています。舞姫は突然なれないことをさせられるわけですから、気苦労が大変で、実際、内裏に入ってからも体調を崩す人がいたのです。惟光の娘はまだ内裏にもいかないうちに早くもくたびれているようです。夕霧の見たところ、ちょうどあの雲居雁のような年ごろで、少し背が高くてしかし見た目の美しさはまさるような感じがします。雲居雁と二重写しになったこの舞姫に対して、夕霧は思わず自らの着物の裾で音を立てて注意を引きます。もしこの場面をテレビや映画で放送するなら、一人の女優さんに二役を兼ねてもらうか、映像技術を駆使して雲居雁役の女優さんの顔を惟光の娘役の女優さんにオーバーラップさせて撮影することになるかもしれませんね。
彼女は何だろうとは思うのですが、無警戒です。夕霧の詠んだ歌は『拾遺集』神楽歌に見える「みてぐらはわがにはあらずあめにます豊岡姫の宮のみてぐら」を下敷きにして詠まれたもののようです。「豊岡姫」は天照大神のこととする説(『花鳥余情』)があり、それに仕える「宮人」というのは舞姫のことを指します。舞姫に向かって、あなたを自分のものにしたいと思っている者がここにいることをわすれないでほしい」というのです。そのあとに「みづがきの」とあるのは「をとめごが袖振る山のみづがきの久しき世より思ひそめてき」(拾遺集・雑恋)を引いており、「ずっと以前からあなたを思い始めたのだ」という意味です。これを十二歳(今で言うなら小学校5年生)の少年が詠むのです。「『ずっと以前』って、いつから好きだったというの?」と聞きたくなるほど生意気なやつです(笑)。しかも惟光の娘にしたら疲れて休んでいたところに、いきなりこんな歌を詠まれたのですから、びっくりでしょうね・・と思ったら、作者も「うちつけなりける(唐突なことだ)」と言っていますね。夕霧はとても美しい声で詠むのですが、惟光の娘は誰だろうといぶかしく感じるばかりです。そこに化粧直しに来た女房たちの声がしたので、夕霧は仕方なく去って行きます。

浅葱の心やましければ、内裏(うち)へ参ることもせず、もの憂がりたまふを、五節にことつけて、直衣(なほし)など、さま変はれる色聴(ゆる)されて参りたまふ。きびはにきよらなるものから、まだきにおよすけてされありきたまふ。帝よりはじめたてまつりて、思したるさまなべてならず、世にめづらしき御おぼえなり。

浅葱色の袍を着ける身分(六位)であることが不満で、内裏に参ることもしないで憂鬱に思っていらっしゃったが、五節にかこつけて、直衣などで(浅葱とは)異なる色を許されて参内なさる。まだ年端もゆかぬきれいなお姿であるが、まだそんなお歳でもないのに大人ぶって、戯れてお歩きになる。帝をはじめとして大切にされていることは並々ではなく、たぐいまれなご評判である。

夕霧は六位の袍を着けて参内するのがいやなので、あまり内裏には行かなかったのです。しかし五節の日は直衣を着けることが許されるので、袍のように色に決まりはありません。そこで、思い切って参内するのです。すると、いくらか大人びたふるまいをして(例えば女房たちに冗談を言いかけるなど)います。なんだかんだといっても誰からも一目置かれている若君なのです。

五節の参る儀式は、いづれともなく、心々に二なくしたまへるを、舞姫の容貌(かたち)、大殿と大納言とはすぐれたり、とめでののしる。げに、いとをかしげなれど、ここしううつくしげなることは、なほ大殿のには、え及ぶまじかりけり。ものきよげに今めきて、そのものとも見ゆまじう仕立てたる様体などの、ありがたうをかしげなるを、かうほめらるるなめり。例の舞姫どもよりは、皆すこしおとなびつつ、げに心ことなる年なり。

五節の参入の儀式は、どの人が格別というのでなく、思い思いにこの上ない準備をなさったのだが、舞姫の容貌は源氏の大殿と按察使大納言の出された人がすぐれていると大きな声で讃えている。なるほどとてもすばらしいのだが、おっとりとしてかわいらしいという点ではやはり大殿の出された舞姫には及びうるはずもなかった。どことなく美しくて華やかで、そういう者(受領の娘などという身分の者)とも見えないほどに装いたてた姿かたちなどがめったにないほど魅力的なので、このように褒められるようだ。だれもが例年の舞姫よりも少し大人びていてなるほど格別な年なのである。

四人の舞姫が参入すると、どうしても品定めがおこなわれます。どの娘が一番美しいとかかわいらしいとか、そういう話になるのです。下品だとかけしからんとか言ったところで、こればかりはどうしようもない現実です。そして惟光の娘と按察使大納言の娘の評判がよく、しかも惟光の娘は受領階級とは思えない魅力があったというのです。受領(地方官)階級の娘というと、たとえば紫式部その人がそれにあたります。清少納言も和泉式部もそういう身分の人です。やはり上流貴族と比べると何かにつけてワンランク下に見られるのですが、美貌であればまた格別なのでしょう。舞姫たちはまだ十代のみずみずしい世代の女の子たちです。
受領階級の男子はめったに大出世をすることはありません(もちろん例外はあります)が、女性はその点身分の高い男と婚姻が成り立ち、子どもを産むようなことになるとその子が出世することもあり得るのです。藤原道長の父親は藤原北家師輔流で摂政に至った兼家ですが、その正妻格となったのは時姫と言われる女性で、彼女の父中正はやはり藤原北家の傍流の子孫で、中正の父山蔭は中納言にまで至りますが、中正は摂津守や左京大夫などを務めた受領階級です。ところが時姫は兼家と結婚して道隆、道長らを産んだために名が残ることになったのです。摂津守と左京大夫というと惟光とまったく同じです。紫式部に何らかの意図があったのか否かはわかりませんが。

殿参りたまひて御覧ずるに、昔、御目とまりたまひし少女(をとめ)の姿思し出づ。辰の日の暮つ方つかはす。御文のうち思ひやるべし。
  をとめごも神さびぬらし天(あま)つ袖
    古き世の友よはひ経ぬれば
年月の積もりを数へてうち思しけるままのあはれを、え忍びたまはぬばかりの、 をかしうおぼゆるも、はかなしや。
かけて言へば今日のこととぞ思ほゆる
    日蔭の霜の袖にとけしも
青摺りの紙よくとりあへて、紛らはし書いたる、濃墨、薄墨、草がちにうち交ぜ乱れたるも、人のほどにつけてはをかしと御覧ず。


源氏の大殿が参内なさって(舞姫を)ご覧になると、昔、目を留められた舞姫の姿をお思い出しになる。辰の日の暮の頃にお手紙を遣わす。その内容については想像にお任せします。
  あのときの舞姫もお年を召された
でしょう。袖を振って舞ったあの
頃からの古い友だちである私も年
齢を重ねてしまったのだから。
年月の重なりを数えて思いつかれたままの感慨を、胸に収めきれずに贈られただけのものだが、それが(女にとって)すばらしいと思われるとしてもはかないことである。
  今日の五節をきかっけにお言葉を
かけていただきますと、私が「日
陰のかづら」をつけて、日に当た
った霜がとけるようにあなた様に
心奪われたのが今日のことのよう
に思われます。
青摺りの紙をうまく取り合わせて、誰の筆跡かわからないように書いた濃い墨、薄い墨、草仮名をまぜて散らし書きにしているのも、その人の身分を考えるとすばらしいものとご覧になる。


光源氏が参内して舞姫を見ます。すると彼の脳裏にはある舞姫の姿が思い浮かぶのです。筑紫の五節と言われるこの舞姫は、花散里、須磨、明石巻にちらちらと名前の見える人物で、太宰大弐の娘です。しかしこの女性との具体的な関係については物語には出てきません。おそらく、かりそめの恋愛の相手だったのでしょう。花散里巻は光源氏二十五歳ですが、その時すでに過去の女性として名前が挙がっているので、この少女巻(光源氏三十三歳)の時点からいうなら十年またはそれ以上昔のことでしょうか。
辰の日は豊明節会(とよのあかりのせちゑ)で五節の正式の舞が行われる日です。その暮の頃、光源氏はその女性に手紙を送るのです。
「をとめごも」という光源氏の歌は、舞姫を天女に見立てて「神さび」「天つ袖」という語を用いています。「ふるき」は「袖を振る」に「古」を掛けています。
今さらこんな歌を贈ったからと言って、相手の女がどうなるものでもないでしょうが、その女性からは返歌が届きます。この歌は「日陰(舞姫が用いる日陰のかづら)」に日の光の意味を掛けるなど技巧を凝らして、あなたに心がとけたあの日が今日のことかと思われる、と返したものです。彼女の使った紙は青摺りで、これは舞姫の装束に合わせたものです。また、文字も筆跡のわからないように書いたり、墨も濃淡を混ぜたり、草仮名(平仮名より漢字に近い仮名)を使ったりするなど、太宰大弐の娘にしてはたいしたものだ、と光源氏は見ています。

冠者の君も、人の目とまるにつけても、人知れず思ひありきたまへど、あたり近くだに寄せず、いとけけしうもてなしたれば、ものつつましきほどの心には、嘆かしうてやみぬ。容貌はしも、いと心につきて、 つらき人の慰めにも、見るわざしてむやと思ふ。

冠者の君(夕霧)も人(惟光の娘)が目に留まるにつけても、人知れず思いを寄せてうろうろなさるのだが、そば近くにさえ寄せつけず、取り付く島もないのでなんとなく遠慮してしまう幼い心には、嘆くばかりで終わってしまった。その美貌は胸に焼き付いて、あのつらい方(雲居雁)とうまくいかない慰めにも、この人と逢いたいものだと思う。

一方、夕霧も惟光の娘を見ると心がときめきます。親子そろってそれぞれの世代の五節に心を奪われているのです。血は争えないですね(笑)。ただ、夕霧はまだ子どもですから、思いをうまく伝えられず、ため息をつくばかりなのです。それでも彼の心には雲居雁の形代としてでも、この娘をわがものにしたいという思いが芽生えているのです。

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