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『枕草子』と平安時代を読む(5) 

今回は、一段があまり長くありませんので、「あさましきもの」「くちをしきもの」の二つの段を読もうと思います。「あさまし」「くちをし」につきましても渡辺実「枕草子心状語要覧」(『岩波新日本古典文学大系 枕草子』)に解説がありますので、一部抜粋します。
「あさまし」については次のようにあります。
  思いもかけない事態に遭遇した時の、あ
っけにとられた気持を表わす。その事態
のもつ意味さえ十分にのみこめていない、
とっさの気持を表わし得るが、実際の用
法としては、その事態を、思いもかけな
い事態として受け取っている、という心
状を表わす場合が多い。
また「くちをし」については次のように記されています。
  他に対して期待する所、あるいはみずか
  らたのむ所、いずれにしてもそれが大き
  いのを第一の条件とし、にもかかわらず
  その期待や自負を満足させる方向に事態
  が展開しないことを第二の条件とする、
  不快感覚語。
これらの説明を頭に置いて、読んでまいりましょう。

あさましきもの。挿櫛(さしぐし)すりてみがくほどに、ものにつきさへて折りたる心地。車のうちかへりたる。さるおほのかなるものは、所せくやあらむと思ひしに、ただ夢の心地してあさましうあへなし。

【語釈】
挿櫛・・女性が正装するときに着けた装飾用の櫛。細工してあるために、こすったり磨いたりする必要があるのだろう。
ものにつきさへて・・何かに突き当てて。
折りたる心地・・大切な挿櫛を折ってしまったときの呆然とした気持ち。
車のうちかへりたる・・牛車がひっくり返っているのを見たときの気持ち。
おほのかなる・・大規模な。大げさな。
所せくやあらむ・・あたりが狭くなるほど大げさであることが「所せく」。とても倒れるとは思えないことをいう。
あへなし・・取り返しのつかないことに対して、もうどうしようもないと思う気持ち。

呆然とするもの。挿し櫛をこすって磨いているときに、何かに突き当てて折った時の気持ち。牛車がひっくりかえったの。牛車のような大きなものは、周りが窮屈なくらい大仰で、倒れるはずもないものだろうと思ったのに、ただもう夢のような気がして、あきれてどうにもならないと思う。

挿櫛は晴れの場に出る時に髪に挿すもので、『枕草子』「頃は」の段(第2段)にも出てきます。正月七日に白馬(あをうま)を見に行こうというので、車をきれいに仕立てて出かけ、待賢門の敷居を越える時に車がガクンと揺れると、挿櫛が落ちて、折れたので笑った、という話です。この話では挿櫛が折れることまで笑いの対象になっていますが、「あさましきもの」の段ではうっかり折ってしまってあんぐりと口を開いている様子がうかがえます。もうひとつ、牛車がひっくり返ったのを見たときも呆然とすると言っています。直接の関係はないかもしれませんが「頃は」の段もここも「挿櫛」と「揺れる(その結果転覆する)牛車」が出てきます。清少納言の頭の中でこの二つは何か結びつくものがあるのでしょうか。

人のために恥づかしうあしきことを、つつみもなくいひゐたる。かならず来(き)なむと思ふ人を、夜一夜起き明かし待ちて、暁がたに、いささかうち忘れて寝入りにけるに、烏(からす)のいと近く「かか」と鳴くに、うち見開(みあ)けたれば、昼になりにける、いみじうあさまし。

【語釈】
人のために・・その当人にとって。
いひゐたる・・「ゐたる」とあるので、じっと腰を据えて言っているというニュアンス。
暁がた・・一般的に男性は「宵」に女のところに行き、「暁」に帰る。「暁」は「あかとき」の転訛した言葉で、まだ暗い時間帯。
かか・・烏(からす)の鳴き声の擬音語。鷲(わし)の鳴き声にも用いられる。『万葉集』に「かか鳴く鷲」という表現がある。
見開け・・烏の鳴き声を聞いてはっと目を開けると。「見上げ」と読む説もあるが、その場合は「烏が鳴いていたので端近に出ていって空を見上げると」ということであろう。この二つの解釈では、烏の声を聴いてから「見あけ(げ)る」まで時間のずれがある。
昼になりにける・・こんな時間まで寝ていたのか、と自分のしていることにあきれ返っている様子。

その人にとっては恥ずかしく具合の悪いことを、遠慮なく言っているの。必ず来るだろう、と思っている男を、一晩中起き明かして待って、暁ごろについ忘れて寝入ってしまって、烏がすぐ近くで「か、か」と鳴いているので、ふと目を開けたら昼になってしまっていたなんて、まったくあきれることだ。

何か、本人にとっては言われたくないことがあるとして、それを無遠慮に言っている人を見ると、「けしからん」とか「ひどい人だ」と思う前に、まず「あさまし」とあきれてしまうのです。「何ということを言うの!」と感じた後で「ひどい人だな」という気持ちになるのでしょう。その「何ということを」の時点が「あさまし」なのです。男が来るはずだと思って寝ずに待っていたら、来なくて、ついに暁の頃にそんなことを忘れてしまって寝てしまい、昼間で目を覚まさないなんて、と、来なかった男への怒りや憎しみ以前に、自分の行動に呆れかえるのです。

見すまじき人に、外(ほか)へ持ていく文見せたる。むげにしらず見ぬことを、人のさしむかひて、あらがはすべくもあらずいひたる。物うちこぼしたる心地、いとあさまし。

【語釈】
見すまじき人・・その手紙を見せてはならない人
むげにしらず見ぬこと・・まったく身に覚えのないこと
あらがはすべくもあらずいひたる・・こちらが抗弁する余地も与えないほどに一方的にまくしたてる。

見せてはならない人に、よそに持って行く手紙を見せたの。まったく知らず、見たこともないことを、人が目の前で、いいわけもさせないように言っているの。何かをこぼしたときの気持ちはとてもあきれるようだ。

見せると具合の悪いものなのに、うっかり勘違いしてそれを人に見せた時にまず感じる、冷や汗が出るような気持ち。失敗だったとか、見せた自分が愚かだったとか、そういう理性的な判断をする前のことです。
何だかわけのわからないことを人が膝詰めで責め立ててきて、それは私ではありません、と言いたいのに、それも言わせないくらいの剣幕である場合。相手に対して不快感を覚える以前に呆然とするような気持ちになります。「ここにあったお菓子、あれ、お客さんに出すものなのに、なんで食べたの」とか何とか言われて、「食べてないよ」と言いたいのに決めつけられてひとしきりまくしたてられた感じでしょうか。よく見たらすぐ横で猫が「ああおいしかった」と笑っている(?)というような話です。
ものをこぼした時もあやまる以前にパニックになってしまいます。レストランで店員さんがうっかり水をこぼした時の感じでしょうか。

くちをしきもの。五節、御仏名(みぶつみやう)に雪ふらで、雨のかきくらしふりたる。節会などに、さるべき御物忌のあたりたる。いとなみ、いつしかと待つことの、さはりあり、にはかにとまりぬる。あそびをもし、見すべきことありて、よびにやりたる人の来ぬ、いとくちをし。

【語釈】
五節・・十一月の中の丑の日(二番目の丑の日)から始まる四日間にわたる五節舞姫の行事。帳台の試み、御前の試み、童女御覧、豊明の節会での五節の舞と続く。
御仏名・・十二月十九日からの三日間、諸仏の名号を唱えて罪障を懺悔する行事。仏名懺悔(ぶつみやうさんげ)とも。
かきくらし・・かき乱したようにあたり一面を暗くして。
節会・・五節句や白馬の節会、豊明の節会などの行事。
さるべき御物忌・・中止に匹敵するような内裏の物忌み。「御」があるので、家庭の物忌みではない。
いつしか・・「いつか」に強めの意味を持つ「し」を加えた語。「いつ・・か」「いつになったら・・か」「早く・・にならないものか」と待望する気持ちを込めて用いられる。

残念なもの。五節、御仏名のときに雪が降らないで雨が一面暗く降っているの。節会などに、節会が中止になるほどの内裏の物忌がぶつかったとき。準備をして、早くその日になってほしいと待っていることが、支障があって急に中止になってしまうこと。音楽もして見せたいものがあって呼びにやった人が来ないのはとても残念だ。

期待していたことが実現しない時の満たされない気持ちを表わすのが「くちをし」です。冬の行事である五節や御仏名のときは雪が似合うと清少納言は思っているのです。天女のような舞姫の姿にも似合い、罪障を浄める行事にもよく映るのが雪で、雨ではダメなのです。「春は曙」の段でも「雪の降りたるはいふべきにもあらず」と言っていましたし、「職の御曹司におはしますころ」の段では雪山を作ってそれがいつまで消えずに残っているかを予想して競い合ったこともありました。清少納言だけではないでしょうが、心を浄めるような雪はとても愛されたのです。一方、雨はあまり好まれません。「春は曙」の段には、夏の夜に関して「雨など降るもをかし」とありましたが、夏の夜は、月でも闇でもかまわないと言い、また雨が降るのもまたおもしろい、といっているのですから、雨を好んでいるというわけではないでしょう。節会という楽しみがあるときに、重大な内裏の物忌みがあった場合、中止になることがあります。それもまたがっかりです。また節会に限らず、待ち望んでいたことが急遽中止になったり、接待の準備を整えて待っていたのに招待するはずの人が来ない時なども実に残念なものです。「くちをし」は不満な気持ちではあるのですが、だからといってどうしようもなくてその不満を飲み込まざるを得ない時に用いられる言葉のようです。雪か雨かは天のみぞ知ることですし、物忌みも避けられないものです。待っていた人が来ないのは「にくし」のようでもありますが、これだけ準備しているのだからきっと来てくれるだろうと考えていたら来なかった、ということで、相手のせいではないのでしょう。「にくし」は明らかに相手に責任があるときに、その人(あるいはもの)にぶつける感情です。

男も女も、法師も、宮仕へ所などより、おなじやうなる人もろともに寺へまうで、ものへもいくに、このましうこぼれ出で、用意よく、いはばけしからず、あまり見苦しとも見つくべくぞあるに、さるべき人の、馬にても車にても、ゆきあひ見ずなりぬる、いとくちをし。わびては、すきずきしき下衆(げす)などの、人などに語りつべからむをがな、と思ふもいとけしからず。

【語釈】
法師も・・法師か華美にするというのは奇妙ではある。能因本はそのせいか、「法師も」がない。
おなじやうなる人・・宮仕えの同僚など。
ものへもいく・・寺社に限らず名所に出かけたりするのであろう。
このましうこぼれ出で・・出し衣をしゃれたように見せて。「出し衣」は車の簾の下から裳や袖をわずかに出して見せること。
いはばけしからず・・自分たちとしてはおしゃれのつもりだが、少し華美に過ぎるくらいなので、あえて言うなら常軌を逸しているほどだという。
さるべき人・・自分たちが精一杯見せている趣向を分かってくれるような人。風流な人。
ゆきあひ・・ばったり出会うこと。偶然出くわすこと。
わびては・・せっかくのおしゃれを見てもらえないことに対して落胆しては。
すきずきしき下衆・・しかるべき人がいないなら、せめて風流のわかる身分の低い者が「すばらしい車だった」と吹聴してくれないものかと思う。
いとけしからず・・下衆に期待している自分がまともではない、という。

男も女も、法師も、宮仕えする所などから、同じような人と一緒に寺に詣でたり、見物に行ったりするのに、しゃれたようすで出し衣をして、じゅうぶんに準備して、言ってみれば華美に過ぎて、あまりにも見苦しいとも見られてしまいそうなのに、わかってくれる人が、馬でも車でも途中で見かけずに終わってしまったのはとても残念だ。落胆して、風趣を介する下衆などで、人などに話してくれるものとでも出会いたい、と思うのもまったくどうかしている。

【語釈】にも書きましたが、「男も女も」はわかるのですが「法師も」というのはいささか異様です。あるいは、まったく風流に関係しないような法師であってすらこんなことがあったら残念だろう、とでも言いたいのでしょうか。当時の女性たちは、寺詣でや祭り見物などは大きな楽しみだったと思われます。なにしろあまり外出しないのですから、ハイキング気分もあったのではないでしょうか。『源氏物語』「葵」で家にばかりいるのが退屈だからというので女房たちが盛んに斎院の御禊の行列見物に出たいと言って葵の上を誘い出す場面があります。『枕草子』にも稲荷詣での記事もありますし、『かげろふ日記』『和泉式部日記』『更級日記』などにも石山寺や長谷寺などに参詣する様子が描かれています。
そんなときに、注目を浴びようとして出し衣を派手過ぎるくらいにして出かけるのですが、期待に反して誰も見てくれない、そんなときは誰のせいでもなく「くちをし」なのです。ただ、あまりに残念なので、高貴な人でなくてもいいから、風流のわかる身分の低い者にでも出会えば、あとで噂をしてくれるのではないかとまで期待してしまうのです。
おしゃれをして出かけたのに、パーティで「壁の花」になってしまうのは残念でしょうね。シンデレラのお姉さんたちも何も実りがありませんでした。
さて「ねたきもの」「かたはらいたきもの」「あさましきもの」「くちをしきもの」と続いてきたのですが、すべてなんらかの不満を抱かせるものでした。清少納言の批評精神がよく発揮されていると思います。私もかなり耳の痛いことがありました。

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