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『枕草子』と平安時代を読む(6) 

次は「五月の御精進のほど」の段ですが、これはかなり長い段ですので、四回に分けて書きます。

五月(ごぐわち)の御精進(みさうじ)のほど、職(しき)におはしますころ、塗籠(ぬりごめ)の前の二間なる所を、ことにしつらひたれば、例様(れいざま)ならぬもをかし。

五月の御精進のころ、(中宮様が)職にいらっしゃるころ、塗籠の前の二間であるところを、とくに精進のために飾り立てていたので普段とは違っているのもおもしろい。

【語釈】
五月の御精進・・一月、五月、九月は「斎月(いもひのつき)」とされ、精進した。14世紀ころの有職故実事典である『拾芥抄』下「斎月」に次のように記されている。「此月月帝釈対南閻浮提勘記衆生善悪也 将断五味持戒精進、称仏菩薩名 一切罪業消滅災難無起命終之後往生十方浄土(この月々、帝釈(たいしゃく)南閻浮提(えんぶだい)に対(むか)ひて、衆生の善悪を勘記するなり。将に五味を断ち、戒を持ち、精進し、仏菩薩の名を称ふれば、一切の罪業消滅し。災難起ることなく、命終(は)つるの後、十方浄土に往生せんとす)」。およその意味は、「一月、五月、九月には帝釈が南閻浮提に向かって人々の善悪を調べて記す。そこで五味を断って精進し、仏菩薩の名号を称えればあらゆる罪は消滅し災難は起こらず、命が終わったあとは十方浄土に往生するであろう」ということで、この月々に精進すると罪業が消滅して往生できると考えられたのである。「南閻浮提」は須弥山の南にあり、人間界という意味も持つ語。
職・・中宮職。中宮に関する役所。定子は何度もここを仮住まいにしている。ここは、記事の内容から長徳四年(998)五月のことと考えられる。
塗籠・・四面を壁で覆って妻戸から出入りする部屋。調度を置く場として用いられ、寝室にすることもあった。
二間・・母屋の塗籠の南側に当たる一角を精進するところとして定めたのであろう。二間とあるので、東西二間(柱と柱の間が一間。その二倍の広さ)を用いた。

前の段(「くちをしきもの」)で物詣でや見物などで、風流に装った車で外出する話がありましたが、この段はその連想によって、車で外出した時の思い出を書いたのかもしれません。かなり派手に車を飾る場面が出てきます。
しかし、最初の部分はその時の状況を語る前提のような短い一節です。中宮が職の御曹司にいたころ、精進のために二間を飾りつけていた様子が思い浮かんだのです。
ここに描かれる内容は長徳四年(998)五月のことと思われますが、中宮定子の父道隆が亡くなって三年、兄の伊周や弟の隆家はすでに実権を失い、世の中は道長の時代(長徳二年に左大臣に就任)になっています。では世の中は落ち着いて道長政権も盤石だったかというとそうではなかったのです。正暦五年(994)以後、しばしば疫病が流行し、道長もこの長徳四年三月(三十三歳)には大きな病気のために再三天皇に辞表を出して出家を願っています。しかし以下に読む『枕草子』の記述はそんなことを感じさせないような内容だと思います。
中宮職における定子の居所は本来なら母屋に定めるべきでしょうが、「職の御曹司におはしますころ」の段に「母屋は鬼ありとて、南へ隔て出だして南の廂に御帳立てて、又廂に女房はさぶらふ(母屋には鬼が住むというので、南に離して南の廂に御帳を立てて孫廂に女房は控えている)」とあり、中宮は南の廂を居所としていたのです。そこで、その一部分の二間(東西二間の部屋)を精進所として設営したのだと思われます。「ことにしつらひたれば」というのは、たとえば持仏の像や絵を飾ったり、持経や供え物を置いたりしたのでしょう。「持仏」は守り本尊として身近に持っている仏のことで、持仏堂に置いたり小さな像を身につけたりしました。「持経」は身近に置いて常に読誦するお経のことで、女性は女人往生を説く『法華経』を持経とすることが多かったようです。

ついたちより雨がちに曇りすぐす。つれづれなるを、「ほととぎすの声たづねに行かばや」といふを、我も我もと出で立つ。賀茂の奥に、なにさきとかや、たなばたの渡る橋にはあらで、にくき名ぞ聞こえし。「そのわたりになむほととぎす鳴く」と人のいへば「それはひぐらしなり」といふ人もあり。

月初めから雨がちで、ずっと曇っている。たいくつなので「ほととぎすの声を求めて出かけたい」と私が言ったら、我も我もと出発することになる。賀茂の奥に「なんとか崎」という、たなばたが渡る橋ではなくて、憎らしい名前のところがあった。「そのあたりにほととぎすが鳴いている」とある女房が言うので「それはひぐらしでしょう」という人もいる。

【語釈】
ついたち・・「五月一日」の意味とも「五月の初め(「一日」とは限らない)」とも考えられる。「ついたち」は「月立ち」のこと。「一日」であることを明確に示したい場合は「ついたちの日」ということもある。
なにさき・・「松ヶ崎」を指すと思われる。
たなばたの渡る橋・・たなばたが天の川を渡るときにかささぎが翼を並べて橋になるといわれる。

五月は精進の月であり、また五月雨(梅雨)とほととぎすとあやめに代表される時節でもあります。この年は月初めから雨が降り、すっきりしません。今でも同じことですが、雨の日はつれづれ(所在ない)で、『枕草子』にも「雨など降り、つれづれなる日」(「過ぎにしかた恋しきもの」)「雨いたう降りて、つれづれなりとて」(「御仏名のまたの日」)などと記されています。
そこで清少納言が「ほととぎすを聴きに出かけたい」というのです。ほととぎすを聴きに外出するというのは、たとえば「殿上のこれかれ山里にほととぎすの声聴きに行きたるところにて」(『実方集』135詞書)「四月のつごもりに右近の馬場にほととぎす聴かむとてまかりて侍りけるに、夜更くるまで鳴き侍らざりければ」(『後拾遺和歌集』夏・180・堀川右大臣=藤原頼宗)のように、男性たちがよくおこなっていたようです。屏風絵にも描かれたらしく、その絵を題材に和歌が詠まれることもありました。
いわばハイキングですから、「私も行きたい」という声が続々とあがります。賀茂の奥にある「○○さき(崎)」といってそのあとに「たなばたの渡る橋」ではなくて、と続けていますが、これは「さき」という言葉の遊びで、かささぎのように二人の仲を取り持ってくれるものではなく、嫌な名前を持っている「さき」だというのです。これは「松ヶ崎」を言うものと思われ、「まつ(待つ)」という名なので、男女が逢うどころか、男の訪問を「待つ」ばかりで逢えないという嫌な名前だ、ということでしょう。「なにさきとかや」というのはその地名を忘れたのではなく、「かささぎ」と対比させるために「待つ」を隠した表現ということなのでしょう。「松ヶ崎のあたりに行けばほととぎすが鳴いていますよ」という女房に対して、「『待つ』のだからむしろ『ひぐらし(蜩。一日中の意味を持たせる)』でしょう」と別の人が答えたというのです。この部分、「今来むと言ひて別れしあしたより思ひくらしの音をのみぞなく(すぐにまた来るよと言って別れた朝から、その人のことを思って一日中ひぐらしのように声を挙げて泣いている)」(古今集・771・遍照)を念頭に置いているという解釈が多いのですが、特にこの歌を引き合いに出さなくてもよさそうにも思います。ところで、「それはひぐらしでしょう」と答えたのは別の女房、ということになっていますが、あるいは清少納言自身なのではないかとも思われます。

そこへとて、五日のあしたに宮司(みやづかさ)に車の案内(あない)こひて、北の陣より、五月雨はとがめなきものぞとて、さし寄せて四人ばかり乗りていく。うらやましがりて「なほ、いまひとつして、同じくは」などいへど、まなと仰せらるれば、聞き入れず、なさけなきさまにて行くに、馬場といふ所にて人おほくてさわぐ。

【語釈】
そこへ・・松ヶ崎へ(行きましょう)。
車の案内こひて・・車を中宮職の職員に準備させる。「案内を乞う」は「事情を尋ねる」というのが本来の意味で、車が用意できるかを尋ねること。実際は車の用意を頼むことである。
北の陣・・一般的に「北の陣」というと内裏の北の門である「朔平門」またはその門の詰め所のこと。そう考えると、その陣から車を用意させたということになる。一説には、中宮職の北門のことで、そこを通って出かけたこととされる。
とがめなきもの・・高貴な人が車に乗るときは、車の後部を建物に寄せて直接(庭に下りずに)乗るが、女房だけの場合はそういうことは許されない。しかし今は五月雨の季節(庭に下りると濡れる)なので、咎められることはないから、というので簀子に車を寄せた。「五月雨のそらおぼれするほととぎす時に鳴く音は人もとがめず」(公任集)によるという説もあるが、特に関係はないだろう。
四人ばかり・・ひとつの車には、だいたい4人が乗った(6人の場合もある)。
いまひとつして・・あと一台用意して。
まな・・禁止する言葉。
馬場・・あとに記される内容によれば、ここは左近の馬場。一条大路の北、油小路北末(北の果て)の北西側にあったと思われる。南北に長い馬場。

そこに行きましょうというので、五日の朝に中宮職の官人に車の手配を頼んで、北の陣から、五月雨のときは咎められることはないからというので、車を寄せて四人ほどが乗っていく。うらやましがって「やはりもう一台車を使って同じことなら(一緒に行きましょう)」などというのだが、「だめですよ」と(中宮が)おっしゃるので、(私たちは)耳にも留めずに容赦なく出かけると馬場というところで人がたくさん騒いでいる。

結局、松ヶ崎を目指すことになりました。先ず一条大路(大内裏の北端にあたる)に出て、そこから東に行くコースを取ります。五月五日の朝のことです。「五月雨なんだから車を寄せても誰も文句を言わないわよ」、とかなりいい加減なことをしています。気分が高揚しているのでしょう。一緒に行きたがる人もいたのですが、中宮が止めたのでそれは無視して、四人は意気揚々と出発します。大宮大路を一条大路に出て東に向かおうとしますと、左近の馬場というところで人が集まって騒いでいます。何があるのでしょうか。

「なにするぞ」と問へば「手結(てつがひ)にて、馬弓(まゆみ)射るなり。しばし御覧じておはしませ」とて、車とどめたり。「左近中将、みなつき給ふ」といへど、さる人も見えず。六位などたちさまよへば、「ゆかしからぬことぞ、はやくすぎよ」といひて、いきもてゆく。道も祭りのころ、思ひいでられてをかし。
【語釈】
手結・・五月五日に左近の馬場で行われる「真手結(まてつがひ)」。射手を組み合わせて(つがえて)矢を射るのが手結。正式の騎射の予行演習。左近の馬場では五月三日に「荒手結(あらてつがひ。略式の手結)、五日に「真手結」(騎射の当日におこなわれる正式の予行演習)。がおこなわれた。
馬弓射る・・騎射が行われる。このあたりのようすは『年中行事絵巻』にも描かれている。
左近中将・・この時の左近中将には藤原斉信、藤原正光、藤原頼親らがいた。
つき給ふ・・左近中将らが大殿屋(おとどや)に着座していらっしゃいます。
さる人・・そういう人。つまり左近中将。
ゆかしからぬこと・・興味を持てないこと。観たいと思わないこと。
祭りのころ・・賀茂祭。賀茂斎院一行が斎院(紫野にあった)から一条通りを通って賀茂神社に向かう。

「何をしているの」と尋ねると「手結で馬弓を射るのです。しばらく御覧なさいませ」といって、車を停めた。「左近中将らが座にお着きです」と言うが、そういう人は見当たらない。六位などがうろうろしているので、「興味はないわ。早く通り過ぎなさい」と言って進んでいく。道も祭りのころが思い出されておもしろい。

お供の男たちが車を停めます。「手結がありますよ」と言うのです。ひょっとすると、この男たちは自分が観たいから停めたのかもしれません。しかし女性方が興味を持つかどうかわからないので、「左近中将様たちがいらっしゃいますよ」と関心をそちらに向けようとしたのではないでしょうか。自分たちは真手結を楽しみ、女性方は左近中将の姿を見て喜ぶ、というもくろみだったかもしれません。清少納言たちがもし興味を持つとすると、左近中将の中では斉信でしょう。「かへる年の二月二十余日」の段で、斉信は「絵に描き物語のめでたきことにいひたる」姿として描かれており、あこがれの的のようでした。ところがそれらしい人が見当たらず、そうなると女性たちは手結などに興味はないらしく、出発を命じます。お供の男たちの舌打ちが聞こえるようです。一条大路は賀茂祭の行列が進むところですので、自分たちがその行列に加わっているように思えてわくわくするのでしょう。

かくいふ所は、明順(あきのぶ)の朝臣の家なりける。「そこもいざ見む」といひて、車よせておりぬ。田舎だち、ことそぎて、馬のかたかきたる障子(さうじ)、網代屏風(あじろびやうぶ)、三稜草(みくり)の簾(す)など、ことさらに昔のことをうつしたり。屋(や)のさまもはかなだち、廊(らう)めきて、端近にあさはかなれどをかしきに、げにぞかしがましと思ふばかりになきあひたるほととぎすの声を、くちをしう御前にきこしめさせず、さばかりしたひつる人々を、と思ふ。

【語釈】
明順の朝臣・・高階成忠の子。中宮定子の母方の伯父。この家は明順の別邸。
田舎だち・・田舎風で。田舎めいて。「体言+た(だ)ち」で、あることの属性が目立つことを言う。「田舎家だち」(『源氏物語』「帚木」)という例もある。
ことそぎて・・簡略にして、簡素にして。
馬のかたかきたる障子・・馬の姿を描いた衝立(ついたて)障子。
網代屏風・・檜皮を網代に編んだ屏風。「山里びたる網代屏風」(『源氏物語』「椎本」)のように、鄙びた風情がある。
三稜草の簾・・三稜草の茎で編んだ簾。三稜草は「草は」の段にも記されていた。
廊・・建物に奥行きがないために廊のように見える
あさはか・・奥行きがなくて端が近いようす。
御前・・中宮。
さばかりしたひつる人々・・もう一台車を用意して同行したいと言っていた女房たち。

このあたりが明順の朝臣の家なのであった。「そこも、さあ、見ましょう」と言って、車を寄せて降りた。田舎ふうで、簡素にして、馬の絵を描いた衝立、網代屏風、三稜草の簾など、ことさらに昔のようすを再現している。建物のようすも質素で、廊のように見えて、奥行きがないのだが風情があってなるほどうるさいと思うほどに鳴き交わしているほととぎすの声を、残念なことに中宮様のお耳に入れられず、また、あれほどついていきたいと言っていた女房たちだったのに(気の毒だ)と思う。

一条大路から松ヶ崎に進んでいるうちに、そういえばこのあたりが明順の別邸(あるいは山荘に近いもの)であった、と思い出し、立ち寄ることにしました。わざわざ立ち寄るのは、明順の家がおもしろい作りだという噂があったからかもしれません。それにしても、一条の北東側になると、都の中心(大内裏は一条から二条の間)に住む人から見るとすでに田舎びた山里だったのですね。今でもあちらにいくと烏丸四条などの喧騒はないと思いますが、交通が便利になっているだけに、さほど田舎という感じはしないのではないでしょうか。しかし昔は、都の北辺は一条大路であって、それより北は条里制の枠からもはみ出した地域であったことは間違いありません。明順の家はいかにも鄙びた山里風に作ってあり、これは明順の好みなのでしょう。馬の絵が描かれた衝立とか、網代屏風とか、三稜草の簾などいかにも山荘風なのです。『かげろふ日記』天禄二年七月に藤原師氏の所有していた(師氏はこの前年に死去)宇治院の様子が描かれる場面があり、そこに「三稜草簾、網代屏風、黒柿(くろがい。柿材のひとつで、材質が固い)の骨に朽ち葉の帷子(かたびら)かけたる几帳どももいとつきづきしきもあはれとのみ見ゆ」とあり、三稜草の簾や網代屏風が宇治という地方に「つきづきし(似つかわしい)」と筆者(道綱母)が感じていることがうかがわれます。
明順の家ではほととぎすの声がやかましいくらいに聞こえます。それにつけて思うのはやはり中宮のこと。その身分からして、いったん内裏に入ってしまうと、出産のようなことがない限りめったに外には出られませんから、聴かせてあげたかった、と思うのです。そして、一緒に行きたいと言っていた女房にも申し訳なく思います。

所につけては、かかることをなむ見るべきとて、稲といふものをとりいでて、若き下衆(げす)どもの、きたなげならぬ、そのわたりの家の娘などひきもて来て、五六人してこかせ、また、見もしらぬくるべくもの、二人してひかせて歌うたはせなどするを、めづらしくて笑ふ。ほととぎすの歌よまむとしつる、まぎれぬ。

【語釈】
所につけては・・こういう田舎に来たのだから、田舎らしいものを見るとよいだろう、という。
稲といふもの・・「といふもの」とあるので、米は知っていてもそのもとの形である稲穂は見たことがない、という表現。
若き下衆ども・・このあとの部分、「若き下衆どものきたなげなる」と「そのわたりの家の娘」を続けて読む解釈が多い。一方、「若き下衆どものきたなげなる」は男で、「そのわたりの家の娘」とは別の人たちを指すという説もある。
こかせ・・稲こきをさせる。稲の穂からもみを取らせる。農作業の実演を見せる。
くるべくもの・・くるくると回るもの。
歌うたはせ・・作業歌をうたわせる。

田舎に来たのだから、こういうことも見るとよい、というので、稲というものを取り出して、若い下衆どもで小ぎれいな者や、そのあたりの家の娘など弾き連れてきて、五六人で稲こきをさせ、また、見たこともないくるくる回るものを、二人で挽かせて歌をうたわせたりするのを、新鮮に思って笑う。ほととぎすの歌を詠もうとしたのに、うやむやになってしまう。

現代でもしばしばおこなわれている農作業体験とか工場見学のようなもので、明順が米はどうやってできているのかを見せてくれるというのです。清少納言たちにとっては、米というとあの小さな白い粒にすぎず、稲というものは見たこともありませんでした。近くの若い者を呼んで目の前で稲こきをさせます。さらに、不思議な器械を二人でくるくる回して作業歌を歌わせるという実演も見せてもらいました。それがあまりに物珍しくて、思わず声を挙げて笑ってしまうのです。このくるくる回る器械というのは、おそらく米を挽くためのもので、碾磑(てんがい)と言われるものではないかとされます。石臼にもみ米を入れて、薬研(やげん)のような形のものでそれを挽くのですが、薬研のように前後に動かすのではなく、それに棒をつけて、その棒を押すようにして石臼の周りを歩き回るのだろうと考えられています。その棒を二人で押すのでしょう。
この実演は、ほととぎすの歌を詠もうと言っていたのがうやむやになるほど興味深いものだったのです。

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