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『枕草子』と平安時代を読む(7) 

「五月の御精進のほど」の段の続きです。清少納言たちは四人で松ヶ崎の方に行って途中で高階明順の山荘のようなところに立ち寄ったのです。邸の作りは邸宅というよりは廊のように奥行きのないものでした。田舎風の三稜草の簾や網代屏風などがあって鄙びた風流を感じさせました。お目当てのほととぎすも鳴いていましたが、それよりも彼女たちは明順が見せてくれた農作業や作業歌に新鮮な驚きを覚えたのでした。

唐絵(からゑ)にかきたる懸盤(かけばん)してものくはせたるを、見入るる人もなければ、家のあるじ「いとひなびたり。かかる所に来ぬる人は、ようせずは、あるじ逃げぬばかりなど、せめいだしてこそまゐるべけれ。むげにかくては、その人ならず」と言ひてとりはやし、「この下蕨(したわらび)は手づからつみつる」などいへば、「いかでか、さ、女官(にようくわん)などのやうに着き並みてはあらむ」など笑へば、「さらば、とりおろして。例のはひぶしにならはせ給へる御前たちなれば」とて、まかなひさわぐ程に、「雨降りぬ」といへば、急ぎて車に乗るに、「さて、この歌は、ここにてこそ詠まめ」などいへば、「さはれ、道にても」など言ひて皆のりぬ。

【語釈】
唐絵・・中国風の絵。
懸盤・・食器を載せる台。唐絵に描かれているので、これも異様な姿に見える。
見入るる人もなければ・・すべてが異様な感じなので、誰も率先して食べようとしない。
家のあるじ・・高階明順。
いとひなびたり・・ここから明順のことば。なんと田舎じみた人たちでしょう、と解釈しておいた。ただし、「ここはとてもひなびた田舎です」「これはとても田舎びた料理です」という解釈が一般的。
かかる所に来ぬる人・・都の中心からこういう田舎に来た人は。
その人ならず・・あなたたちらしくありませんね。
とりはやし、・・座を取り持って。
下蕨・・何かの下蔭に生えた蕨のことと言われる。
手づから・・明順が自身の手で。
女官・・下級の官女。
着きなみてはあらむ・・並んで食べたりするものですか。
とりおろして・・懸盤から取って(食べてください)。
はひぶし・・腹ばいになって臥すこと。女房たちはこういう姿勢をとっていた。
この歌・・ほととぎすの歌。

唐絵に描いてあるような懸盤で食事を出してくれたのにだれも見向きもしないので、家の主が「なんと田舎者みたいですね。こういうところに来た人は、うっかりすると、主人が逃げてしまいそうなくらいに催促して食べるものなのに。まったくこのようになさるのは都会の人ではないのでしょう」と座を取り持って、「この下蕨は私自身が摘んだものです」などというので、「どうしてそんなふうに、女官などのように並んで座って食べられましょうか」などと笑うと、「それなら、盤から取りおろしてどうぞ。いつも腹ばいに伏すことに慣れていらっしゃるあなたがただから」といって、にぎやかに給仕しているうちに、「雨が降り出しました」と(お供の者が)言うので、急いで車に乗ると、「さあ、このほととぎすの歌は、ここで詠みましょう」などと言う人があるので、「まあいいわよ、道中ででも」などと言って皆乗った。

「いとひなびたり」については、まったく鄙びた食べものですが、と謙遜したことばと解釈されるのが普通です。ただ、「鄙びていること」とそのあとの「ここに来る人は争って食べられるのに、あなたがたはそうではない」という内容との結びつきが必ずしもしっくりしないので「あなた方は田舎者ですね。だって、都会の人なら争ってでも食べようとするのに」とつながることもあって、そのように理解しておいたのです。
女官のように並んで食べるなんて、というのは、現代に喩えると給食のようにみんな揃って並んで食べる様子を言うものでしょうか。そんなかっこうはできない、というのです。すると明順はいつも腹ばいになっている皆さんですからね、とからかうように言うのです。やがて雨が降ってきて、清少納言たちは車に戻ります。ほととぎすを聴いたのですから、常識としては歌を詠んで記録しておかねばなりません。しかしあわただしく帰ろうとする彼女たちはあとまわしにしてしまいます。

卯の花のいみじう咲きたるを折りて、車の簾、かたはらなどに挿しあまりて、襲(おそ)ひ、棟などに、長き枝を葺きたるやうに挿したれば、ただ卯の花の垣根を牛にかけたる、とぞ見ゆる。ともなる男(をのこ)どももいみじう笑ひつつ、「ここまだし」「ここまだし」と挿しあへり。

【語釈】
襲ひ・・車の覆い。屋根の部分。
棟・・牛車の屋形の上に渡した木。

卯の花がたくさん咲いているのを折って、車の簾、脇などに挿してなお余るので、屋根や、棟木などに、長い枝を葺いたように挿したところ、ちょうど卯の花の垣根を牛にかけたようだ、と見える。お供の男たちも大笑いして、「ここがまだですよ」「こっちがまだですよ」と挿しあっている。

時節柄、卯の花が咲いています。それを車のあちこちに挿したところ、卯の花を牛にかぶせたように見えるというのです。大笑いして挿しているお供の男たちも交えて、実に楽しげなようすです。「をのこ」は「をとこ」とは違って敬意の対象にならない男を指します。

人も会はなむと思ふに、さらにあやしき法師、下衆のいふかひなきのみ、たまさかに見ゆるに、いと口をしくてちかく来ぬれど、「いとかくてやまむは。この車のありさまぞ人に語らせてこそやまめ」とて、一条殿のほどにとどめて、「侍従殿やおはします。ほととぎすの声ききて今なむ帰る」といはせたる。つかひ、「『ただいままゐる。しばし、あが君』となむのたまへる。侍(さぶらひ)にまひろげておはしつる、急ぎたちて、指貫(さしぬき)たてまつりつ」といふ。

【語釈】
人も会はなむ・・直訳すると「人が(私たちに)会ってほしい」。誰かしかるべき人がこの車を見てほしい、ということ。精一杯卯の花を飾りつけたので、それを見て感心してほしい。
あやしき法師・・法師はそれでなくても無粋な存在で、まして「あやしき」者となれば見られても意味がない。要するに貴人の男性に見られたいという意識が強いのである。
人に語らせてこそやまめ・・この派手な飾りつけの車のことを、誰かに見せて、その人にうわさを広めてもらいたい、という発想。
一条殿・・一条通りにあるお屋敷。具体的には東大宮通りの東、一条尾通りの南にあった、もとの藤原為光邸(為光はすでに亡くなっている)を指すと思われる。藤原伊尹、その子為光、為光の娘と伝領され、佐伯公行(富裕で知られた人)が買い取って、東三条院(道隆の妹の詮子)に献上した。この翌年の長保元年に内裏が焼亡した後には、一条天皇の里内裏として用いられた
侍従殿・・藤原為光の六男の公信(977~1026)。このとき二十二歳。二年前の長徳二年(996)に侍従になっている。
あが君・・相手を親しみ敬っていう語。
侍・・侍所(さぶらひどころ)。三位以上の家の侍の詰め所。
指貫・・指貫の袴。ゆったりとした大きな袴で、裾をくるぶしのところで縛って用いた。

誰かに見てもらいたいものだ、と思うのだが、まったく賤しい法師や下衆のつまらない者だけが稀に見えるだけなので、とても残念に思いながら(大内裏の)近くまで帰ってきたが「どうにもこのまま済ませてよいものか。この車のようすを人の口にのぼるようにして終わりたいものです」というので、一条殿のあたりに停めて「侍従殿はいらっしゃいますか、ほととぎすの声を聴いて今帰るところです」と言わせた。使いの者は「『すぐに参る、しばしお待ちを』とおっしゃっています。侍所で服をはだけていらっしゃいましたが、あわてて指貫をお召しになりました」という。

せっかく卯の花でめいっぱい装飾したのだから、誰かに見てもらいたいと思うのですが、しかるべき人に会えないので「くちをし(残念だ)」と思っているのです。というと、このひとつ前の「くちをしきもの」の段が思い起こされるでしょう。「好ましうこぼれ出で、用意よく、いはばけしからず、あまり見苦し、とも見つべくぞあるに、さるべき人の、馬にても車にても、行き合ひ見ずなりぬる、いとくちをし(しゃれた出衣をして、趣向を凝らして、いわば度を越して、あまりに見苦しいと見えるようなかっこうをしているのに、しかるべき人が午でも車でも出会うことなく終わるのはとても残念だ)」とありました。あきらかに前段からの連想で書かれていることがわかります。こうなったら、こちらから押しかけてでも、誰かに見せて噂をしてもらおう、というので、やがてやってきた一条殿のそばに車を停めて、若い公信を呼び出そうとするのです。すると使いの者が、「すぐにおいでになります」と言えば済むことなのに、「今いいかげんな格好をしていらして、指貫を慌てて着けていらっしゃいます」などと、言わずもがなのことを伝えるのです。このあと、公信は徹底的に戯画化されていくのです。

「待つべきにもあらず」とてはしらせて、土御門(つちみかど)ざまへやるに、いつのまにか装束(さうぞ)きつらむ、帯は道のままにゆひて、「しばし、しばし」と追ひくる、供に侍三四人ばかり、ものもはかで走るめり。

【語釈】
土御門ざま・・一条通りの二つ南の道が土御門大路。大内裏の土御門大路に面したところに上東門(土御門)があり、清少納言たちはそこから大内裏に入る。よって、一条大路から東大宮大路を南下していることになる。
装束き・・「装束」を動詞化した語で「装束を着ける」の意。
しばし、しばし・・公信のことば。走りながら帯を結んで、声をかけている。
ものもはかで・・お供の者ははだしで走ってくる。『伴大納言絵巻』などの絵を見ても、当時は、はだしで道を行き来することは珍しいことではなかった。それにしても貴族のお供の者だけに、滑稽に見える。

「待つ必要はないわよ」といって車を走らせて、土御門の方に行かせると、いつのまに装束を着けたのか、帯は途中で結びながら「しばらく、しばらく」と追ってくる。お供に侍が三、四人、何も履かずに走ってくるのが見える。

一条殿は東大宮大路と一条大路の角にありましたので、清少納言たちはおそらく一条殿の北門から公信を訪ね、そのあと逃げるかのように東大路に出て南に下り、土御門大路に向かうのです。なんだか現代の「ピンポンダッシュ」みたいなことをしていますね。ここで、土御門大路について補足しておきます。この通りは、平安時代のごく初めには一条大路でした。つまりこの道が平安京の北辺だったのです。ところが、大内裏を北に広げたために、ふたつ北側に新たな一条大路ができました。中山忠親の日記『山槐記』の長寛二年(1164)六月二十七日条に「昔以土御門為一条大路、其後北辺二丁被入宮城(昔、土御門を以て一条大路と為す。其の後、北辺二丁、宮城に入れらる)」とあります。そして、元の一条大路から大内裏に入るために新たな門が造られ、上東門と呼ばれたのです。これは簡素な門で、屋根もなければ当然扁額もかかっていない、もともと土塀だったところを切って入口にしただけのものでしたから、通称「土御門」というのです。そしてその旧一条大路は「土御門大路」となったのです。「宮城十二門」と総称される大内裏の門がありますが、この門と、やはり旧一条大路の大内裏西側に新たに造られた上西門は「十二門」の中には含まれません。
さて、清少納言たちは、それなら待つまでのことはないと言って、車を出します。おそらく公信が慌てて指貫を着けて飛び出してくるのが予想されたのでしょう。この人物の性格などを見透かしたような意地悪と言えるでしょう。案の定、帯を結び結び、公信が走ってきて、お供の者ははだしで追いかけてくるのが見えるのです。車の中で彼女たちが笑い合っているようすが目に浮かぶようではありませんか。

「とくやれ」といとどいそがして、土御門にいきつきぬるにぞ、あへぎまどひておはして、この車のさまをいみじう笑ひたまふ。「うつつの人の乗りたるとなむ、さらに見えぬ。なほ降りて見よ」など笑ひ給へば、供に走りつる人、ともに興じ笑ふ。「歌はいかが。それきかむ」とのたまへば、「今御前に御覧ざせて後こそ」などいふ程に、雨まことふりぬ。

【語釈】
この車のさま・・卯の花を飾りつけた車のありさま。
なほ降りて・・車に乗っていたらわからないから、降りて見てご覧なさい。
歌はいかが・・ほととぎすを聴きに行ったということなので歌を詠んだはずだから、それが知りたい、という。
後こそ・・中宮にお伝えしてから申し上げましょう。あとに「聞こえめ」などが略された形。

「速く走らせて」といっそう急がせて、土御門に着いた時に、(公信は)息をはずませてあわてておいでになって、この車のありさまを大笑いなさる。「生身の人間が乗っているとはまるで見えない、まあ降りてこちらから御覧なさい」などとお笑いになると、お供をして走っていた人たちも一緒になっておもしろがって笑う。「歌はどうですか、それを聞きましょう」とおっしゃるので、「このあと中宮様にお目にかけたあとで」などといっているうちに、雨が本降りになった。

清少納言たちの意地悪が続きます。公信が追いかけてくる姿を見ると、車を急がせるのです。そして土御門(上東門)に着いた頃にやっと公信は息を切らせておいついたのです。そして卯の花で飾られた車の様子を見て大笑いします。清少納言の作戦は成功しました。これできっと公信は明日にでもこの車のことを噂して広めてくれることでしょう。公信はほととぎすの和歌を教えてほしいというのですが、清少納言たちは結局詠んでいませんでした。しかしここでも公信をからかうように「中宮様に見ていただいてから」とかわします。それにしても、公信はどうしてこんなに必死に追いかけてきたのでしょうか。まだ若い(二十二歳)彼にとって清少納言は一目置くべき存在だったことは想像に難くないのですが、それだけでなく、ほととぎすを聴いた帰り道だといわれて放置するのは風流に欠ける人物としてあとで何を言われるかわからない、という思いがあったのでしょうか。また、卯の花を飾った車を見せたいのに逃げるようにして車を急がせた清少納言たちは、公信が追いかけてくることがあらかじめわかっていたかのようです。貴族たちの行動様式をうかがうのにとてもおもしろい資料とも言えそうです。

「などか、こと御門御門のやうにもあらず、土御門しもかうべもなくしそめけむと、今日こそいとにくけれ」などいひて、「いかで帰らむとすらむ。こなたざまはただ遅れじと思ひつるに、人目もしらずはしられつるを、奥(あう)いかむことこそ、いとすさまじけれ」とのたまへば「いざたまへかし、内裏(うち)へ」といふ。

【語釈】
こと御門御門のやうにもあらず・・ほかの多くの御門のようでもなく。ほかの門には屋根がついていて、雨が降っても雨宿りができる。ただし、上西門も上東門と同じく屋根のない塀を崩しただけの門であった。
かうべもなくして・・頭(かうべ)もなくして。屋根のことを擬人的におもしろく言ったのであろう。一説に「かううべもなく」で、「このように道理(うべ)もなく」の意味とする。
今日こそ・・雨降りの今日こそ。雨が降ると屋根のない門が特に憎らしい。
いかに帰らむとすらむ・・直訳すると「(私は)どうやって帰ろうというのか」。雨の中で途方に暮れている。滑稽な描かれ方。
こなたざまは・・帰り道に対して、ここまでやって来た道のこと。
奥いかむ・・わかりにくい。「ここから先に行く(一条に帰る)」の意味か。岩波古語辞典は「なお先に行く」都説明しているが、用例がこの『枕草子』の文だけなのではっきりしない。
いざたまへかし・・さあいらっしゃい、と人を誘う言葉。
内裏へ・・実際に中宮のいるところは内裏ではなく職の御曹司なので単に「大内裏の中へ」という程度に言ったものとも言われるが、中宮の居場所ということで内裏に準ずる気持でこう言ったものか。

「どうしてほかの諸門のようでもなく、土御門に限って頭もない形に造ったのだろうか、と、今日ばかりは憎らしいよ」などと言って、「どうやって帰れというのだ。こちらに向かって来る時はただ遅れまいと思っていたので人目もはばからずについ走ってしまったのだが、このあとはどうすればいいのかと思うとまったく気乗りがしないことだ」とおっしゃるので「さあ、いらっしゃい、中宮様のところに」と言う。

公信は愚痴を言います。ほかの門には立派な屋根があるのに、よりによってこの上東門だけ屋根がないのはどうしたことか、と。そして帰れないじゃないかと途方に暮れている様子は滑稽極まりないのです。清少納言はじゃあこちらにいらっしゃい、と本心かどうかあやしいことを言います。

「烏帽子にてはいかでか」「とりにやりたまへかし」などいふに、まめやかに降れば、傘もなき男(をのこ)ども、ただ引きに引き入れつ。一条殿より傘持て来たるをささせて、うち見返りつつ、こたみはゆるゆるとものうげにて、卯の花ばかりをとりておはするもをかし。

【語釈】
烏帽子にてはいかでか・・公信は参内するつもりではないので冠ではなく烏帽子を着けている。直衣(平服)姿であっても、中宮の御前に行くのであれば冠が必要。
まめやかに・・本格的に。
傘もなき男ども・・清少納言のお供の従者たち。彼らも傘がないので早く帰りたい。
ただ引きに引き入れつ・・どんどん大内裏の中に車を引き入れた。
一条殿より・・公信の家来が一条殿から傘を持ってきた。
うち見返りつつ・・公信の恨めしそうな様子。
卯の花ばかりを・・車につけていた卯の花をいくらか持って帰った。

「烏帽子ではどうして参れましょうか」「(冠を)取りにおやりなさいな」などといっているうちに本降りになったので、傘もないお供の者は車をどんどん中に引き入れた。一条殿から傘を持ってきたのを差させて、振り返りながらこのたびはゆっくりと憂鬱そうに、卯の花だけを手に取ってお帰りになるのも滑稽だ。

公信のさんざんな様子が描かれます。烏帽子で中宮の前に出るのは非礼に当たるので、と、清少納言たちの誘いを真に受けた公信は遠慮しています。「ひとっ走り、誰かに取りに行かせればいいじゃない!」というのもそんなことをするはずもないことを前提にしてからかっているのでしょう。清少納言たちは中に入っていき、あとに残された公信はやっと傘(後ろから人に差させる長柄の傘)が届いたので、それを差させて何度も見返りながら慌てて走ってきたときとは打って変わってとぼとぼと歩いて帰るのです。手に卯の花を持ちながら。

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