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簔助師匠の引退(1) 

文楽の吉田簔助師匠が引退されるそうです。
これくらいの方であれば、この公演を引退興行の形をとって開催してもいいと思うのですが、公演半ばにしての発表でした。
どうやら、派手に引退することをお嫌いになって、ひっそりとやめていきたいというのが師匠のお考えのようです。それで公演の始まるころに内々にはおっしゃっていて、公演の後半になるに際して公表なさったようです。これはこれで、簔助師匠の美学ですからこれまでの功績を考えた場合、そのお考えを重んじるほかはないと思います。公表の時期も、ひょっとしたら簔助師匠は公演終了を待って、とでもお考えではなかったか、それはいくら何でも、というので公演半ばになったのではないか。・・というのはまったく私の邪推に過ぎません。
私はまだどの技芸員さんが何というお名前の人かわからずに文楽を観ていた時は別として、それでも昭和五十年代の前半から

    40年以上

にわたって拝見してきました。
当時まだ40代でいらっしゃった簔助師匠は、先代清十郎師匠とともに主に女形の花形であり、また最高峰として活躍されていました。
当時の人形の番付は、玉男(先代)、勘十郎(先代)、清十郎(先代)、簔助、文雀、文昇(先代)という順で、亀松、玉五郎という古老が番付の中軸と別書き出しにいらっしゃいました。この中では簔助師匠が一番お若く、実際、他の方々はすでに鬼籍に入られました。
あの当時、亀松さんが八十代前半のお歳でしたが、人形がかなりぎくしゃくしたり、大きな動きはできなくなっていたりしていました。八十代で人形を遣うなんて無理だろう、と、まだ学生だった私は思ったものでした。しかしその後、寿命が延びて、七十代なんてまだまだ、という感じになってきています。
ただ、簔助師匠は脳梗塞に倒れられ、懸命のリハビリでやっと復帰されたのでした。復帰公演は1999年の夏の公演で、

    『桂川連理柵』のお半

でした。私にとっては、この公演は別の意味で忘れられないものなのです。雑誌『上方芸能』で文楽表を担当されていたのは当時毎日新聞にいらした宮辻政夫さんでしたが、この直前にお辞めになりました。一方、私はそういうことと関係なく、ずっと文楽の感想をメモする習慣があったのですが、それを同誌の編集部の方に知られたために(笑)、後継をするように言われたのです。私なんてそんな能力はありませんから、とんでもない話だといってお断りしましたが、すったもんだの挙句「それでは一度書いてみますので、編集部で判断してください」と簔助師匠復帰公演から筆を起こしたのです。すると、あっさりそれがそのまま雑誌に載ってしまい、いつしか私がそのまま続ける羽目になってしまったのです。
私は、「帯屋」でお半が暖簾の間から顔をのぞかせ、やがて簔助師匠が姿を現されたときの万雷の拍手が忘れられず、そのことから書き始めたのでした。文楽劇場であれほどお客さんがからだをゆすったり涙を流したりしながら拍手されたのは観たことがありませんでしたから。(続く)

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