文学部はいらない
- 日々牛歩
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大学が冬の時代になると言われたのはもう二十年、いやもっと前でしょう。そのころに生まれた子どもがすでに大学を卒業しているのですね。私はちょうどその冬の時代を大学教員として凍えながら過ごしてきました。
当時国立大学に勤めていた大学の先輩と何かの学会のあとでお話しした時、先輩はご自身の大学の状況を「ひどいもんだよ、冬の時代だ」とぼやいていましたが、定員割れもしない、給料の心配もない国立の先生が言わないでくださいよ、と言い返したいくらいでした。
特に、私の専門である文学や歴史などという
社会で役に立たない
とされることについては、「大学で教えることではない」と公然と言い出す人も現れるようになりました。折しも就職難の時代で、学生も「ほんとうは違うことをしたいけれど、就職に有利だから」という理由で資格の取れる大学、学部を目指すようになり、弱小私立大学の文系学部は学部再編や廃止などの直撃を受けました。こうなるともう冬どころか北極をTシャツ姿でさまよっているような状態でした。
いつぞや文部科学省の役人が国立大学の文系学部は整理する必要があると言っていました。しかし、そんなことしなくても私立でぞんぶんに「整理」されていますから、国立だけは残しておかなければならないと思います。せめて国立は多様な学部を持っていることが必要です。
ヨローッパの大学の最初の頃は神学部、法学部、医学部が重要でした。神学部と言うのは今の日本ではちょっと考えにくいですが、宗教学や歴史学に関わるものと見れば文学部が一番近いでしょう。こういう、人文科学、社会科学、自然科学、あるいは文系、社会系、理系のバランスが骨格部分にあって、そこから大学の学部というのは枝がひろがっていったので、その骨格の部分はやはり大事にしておくべきだとも思います。
荻生徂徠は
「学問は歴史に極まり候」
といっています。歴史の中にこそ学ぶことがあり、それを知らずに未来を見通すことなどできるはずがありません。過去に犯した過ちを知り、それを繰り返さないように今の自分を見つめ、そのうえで未来をどのように築いていくかを考える。それが歴史の勉強の本質だろうと思います。過去の出来事を丸暗記することが歴史学なのではありません。数学だろうが物理学だろうが、歴史を知らないとその学問の未来も見えてこないはずです。
昨今の政治家を見ているとこの歴史の発想が欠けているために未来を描けない人が多いのだと思えてなりません。もっと古典や歴史を学ぶべきだと思うのですが、そんな説教をしても馬耳東風でしょうね、きっと。しかしそういう政治家に「文学は役に立たない」などとは言われたくないのです。
・・と、ここでこんなことを言っても「ごまめのはぎしり」ですけどね。
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- [2021/05/31 00:00]
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恩師の手紙
引き出しの整理をしていたら恩師からの手紙が出てきました。
20年ちかく前、恩師が大学学長になられたので私は「これからの大学は国家資格を取るコースなどを設けることで人気が上がり、きっと受験生が集まりまっせ!」と手紙で提案したのでした。
その提案に対して恩師は「おっしゃることは一理あります。しかし大学は、すぐに役立つ技能・知識を身に付けるよりも、いかなる境遇に立たされようとも生き抜く力を養うことが使命でありましょう。海軍兵学校校長・井上茂実は、将来の海軍士官を世界のどこに出しても恥ずかしくない紳士に仕立てるあげることに注力しました。対してあの新自由主義者サッチャーはオックスフォード大学の女子学生に『中世イギリス文学ですって!まぁなんて贅沢な!』と言ったそうです・・・」
そうですよね。恩師の手紙にあるように、ほんらい大学は教養を身に付け、自分のアタマで考え、そして生き抜く力を養うところなんですよね。しかし、専門学校との違いがなくなる大学が増える一方ですねぇ。
🎵やたけたの熊さん
大先生のおっしゃるとおりであり、しかし熊さんのおっしゃるとおりになってしまいました。弱小私立は、今やカネ、カネ、カネ、ですから、何を言っても聞く耳を持ちません。そういうところから廃校になるほかはないと感じます。
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