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小学校時代の懺悔(2) 

小学校時代のことを思い出すなんて本当に少ないのですが、今の時代に見られるさまざまな理不尽に出くわした時にフラッシュバックが起こるように思います。
私は障害を持つようになって、改めて差別やハラスメントについて考えるようになりました。これらは自分が被害者にならないとなかなかわからないものだと思います。セクハラをした人が訴えられたときに「まさか自分のしたことがセクハラになるとは思わなかった」と言ったりしますが、あれは多くの場合本心だと思うのです。加害者側にはさほど悪気がないだけに「なぜ訴えられるの?」という気持ちになるのでしょう。しかしそういう人が軽い気持ちでしたこと、言ったことが被害を受けた側からすると許しがたいことなのです。このことを今になってしみじみ感じるのです。
私は、子どものころ、いじめっ子ではありませんでした。どちらかというと

    いじめられる方

で、よほどのことがないと喧嘩もしないし、不快なことがあっても怒ることすらほとんどしませんでした。そして、これはうぬぼれかもしれませんが、人の悪口を言っている同級生がいた場合、それに乗っかるようにして同じように悪口を言うようなこともあまりしなかったと思うのです。自分がいじめられるタイプだったから、いじめることをよしとしなかったのだろうと思い返しています。そしてその自分に満足もしていたのだと思います。ところが・・。
5年生か6年生の図画工作の時間でした。私は絵や工作が大の苦手でいつも憂鬱だったのですが、この日は

    校庭で写生をする

ことになっていたので、開放感があって少しは気が晴ればれとしていました。私は画板と画用紙を持って適当な場所に腰を下ろしました。
するとたまたま声が届くくらいの距離のところに、少し知的障害のある同級生の女の子が座っていたのです。彼女は勉強も運動もうまくできず、表情が乏しく、着ているものがいつも同じようなあまり上等と言えないものだったところから考えると家庭も貧しかったのだろうと思います。同級生の「悪ガキ」たちはそんな彼女をからかっては喜んでいました。私はそれを咎めるほどの勇気は持ち合わせていませんでしたが、苦々しくは思っていたのです。そう思うことで自分には「いくばくかの正義感」があるのだと信じたかったのかもしれません。
私は彼女とは普段からほとんど話したこともありませんでしたので、写生の時も特にその存在を意識していませんでした。すると彼女が何か言いかけてきたのです。その言葉はよくは思い出せないのですが、私にとっていささか不愉快なものでした。それにカチンときたのか、晴天の下でいくらか興奮していたのか、その直後、私は彼女に

    ひどい言葉

を浴びせてしまっていたのです。自分でもびっくりするような、ここには書けないような差別的なことを言っていました。
彼女はきっとショックだったと思うのです。そのあと、私に何も言い返すことなく黙ってしまいましたから。私はその瞬間、あの「いくばくかの正義感」が吹っ飛んで、「結局自分もクラスの悪ガキと同じ差別をしているじゃないか」と思い知ったのです。
あの時の彼女の顔は今もよく覚えています。無表情だった彼女が鼻でふっと息を吐いて一瞬にして悲しそうになったあの顔を思い返すと、嫌なことをしたものだと申し訳ない思いでいっぱいになり、今でも涙が出そうなくらいです。
心から懺悔します。

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コメント

藤十郎さん

思いがけないことについカッとなると、心にもないきつい言葉が我知らず出てきて、後悔の種になりますね。

その子をいじめていた子供たちは全然後悔せず、いじめていたことすら覚えていないかもしれません。

🎵如月さん

最近、黒歴史という言葉があるらしいですが、まさにそれです。
近ごろまた口が悪くなってきていますので、気をつけねばなりません。

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