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吉田作十郎さん 

思い出の技芸員さんとして人形遣いの吉田作十郎師(1920~2006)を挙げてみようと思います。
この方はご本名が小西作十郎とおっしゃるのだそうで、なんだかそのまま芸名になりそうな感じです。お歳は先代玉男師匠のひとつ下でいらっしゃいました。
三代目の吉田玉助師(今の玉助さんのおじいさん)がまだ玉幸を名乗っていらしたころに入門なさったようです。玉助師はご本名が作十郎師と同じ「小西」でいらっしゃるのですが、特に親戚関係という話は聞いたことがありません。
初名は玉枝。昭和二十四年に作十郎と名乗られたようです。分裂時代は三和会で、立役一筋という方です。
私が文楽を観始めたころはまだ脇役専門という感じで、玉男、勘十郎(いずれも先代)の影に隠れてあまり目立ちませんでした。文楽劇場の開場公演でも、玉男師が「知盛」と「いがみの権太」、勘十郎師が「狐忠信」を持たれたのに対して、作十郎師は

    「梶原景時」

でした。維盛の首を受け取りに来る役ですね。
いつも苦虫を噛み潰したようなお顔をなさっていて(笑)、だからというわけではないのですが、『忠臣蔵』の高師直など悪役の雰囲気が強かったように思います。
たしか、玉男師匠が「自分や勘十郎君がいるのでなかなか主役は難しいかもしれないが、脇で行くのもひとつの道ではないか」というようなことを直接ご本人におっしゃったというのを何かで読んだことがありました。
そして先代勘十郎師が亡くなったあとは主役級の役も次々に回ってくるようになり、「新口村」の孫右衛門、「沼津」の平作、「すしや」の弥左衛門、『妹背山婦女庭訓』の大判事などの老人や渋みのある高齢の男性を演じられたのでした。私は特に孫右衛門や平作の情愛ゆたかな老父の役にこの方の円熟を感じました。
もうひとつ、作十郎師で思い出すのは、舞台の上でよく左遣いや足遣いのひとになにやらブツブツと

    お小言

をおっしゃっていたことです。「・・せんかい!(「・・しなさい」の意)」など、前の席に座っているとけっこう聞こえてくるのでした。
お弟子さんはいらっしゃらず、お帰りになる時も重鎮なのにお見送りの方もないまま、そそくさとエレベーターに乗っていらっしゃったお姿を拝見したこともありました。人間国宝になられることもなく、栄誉には恵まれなかった方ではありましたが、記憶に残る人形遣いさんでした。

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