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野澤松之輔師匠(2) 

松之輔師というと、もうひとつ近松ものの作曲も大きなお仕事でした。ただ、このお仕事については、賛否というか、毀誉褒貶があり、特に脚色に関しては「誉」「褒」よりもかなり厳しい「毀」「貶」のご意見があります。
たとえば『曽根崎心中』。昭和28年(1953)は近松門左衛門生誕300年でしたので、歌舞伎で『曽根崎心中』の復活上演がありました。宇野信夫氏の脚色で、義太夫の作曲は松之輔師です。この上演で中村扇雀(のち、四代目坂田藤十郎)のお初が絶大な人気を博したことはよく知られています。
松竹は、

    文楽でも是非

と考え、2年後に上演されたのです。そのときの脚色、作曲をされたのがやはり松之輔師でした。歌舞伎では平野屋の久右衛門(徳兵衛のおじ)が「天満屋」に出てきますが、文楽でも最初は久右衛門を出すことにしていたそうです。番付には吉田玉助が久右衛門を使ったと書いてあります。しかし話し合いの過程で原作のようにしようということになり、実際の舞台には出てきません。今ももちろんそうですが、復活初演の時から出ていないのです。歌舞伎とは一線を画しています。
しかし、松之輔師の脚色はかなり大胆に書き換えを行っています。それについて松之輔師は「門左衛門の作品はむつかしく、今日では人形の動きもはっきりとは分らない。それを演劇的にするには、近松の精神を生かしつつ、新しい現代的なものにすることが大切だと思った」(吉永孝雄『私説 昭和の文楽』による)と言っていらしたそうです。
それは曲だけの問題ではなく、脚色もなさったわけですから、地の文も台詞もかなり変わっています。例えば、ラストシーンは原作では

    「恋の手本となりにけり」

ですが、松之輔師は「森の雫と散りにけり」で結ばれました。私の考えでは、文学としてはやはり「恋の手本」であってほしいのですが、松之輔師はあえてそれを選ばずに、その方が現代の人にわかりやすいと考えられたのか、思い切って変更されました。これは一例ですが、全体としても松之輔師の脚色はかなり原作を改められているので、学者さんには「改悪である」という意見は少なくありません。
ただ、全体で80分あまりというコンパクトな形になっていることもあって、一般的にはわかりやすくテンポもよいと、評価する人も多いと思います。松之輔師がお考えになった「現代に受けるように作曲を新しくやっている」(吉永氏前掲書)という点は実現していると思うのです。
松之輔師は天才肌のところが感じられ、近松の改作についても独特で、それゆえに批判されることも多いのですが、今はもう『松之輔脚色曽根崎』として定着していて、文楽の財産になっているように感じます。

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コメント

藤十郎さん

松之輔師匠は歌舞伎の竹本の野澤松也師匠がお世話になったと仰っていた気がします。曖昧な記憶で申し訳ありませんが。

一度松也さんにお尋ねになるのもよろしいかもしれません。

🎵如月さん

そうなんです。
松也師匠は文楽に入られて松之輔師匠に入門されました。「松也」のお名前も松之輔師にちなむのですね。しかし松之輔師がほどなく亡くなり、松也師匠は歌舞伎に移られたのです。
今も、松也師匠は東京にご滞在になるとき、古川橋(東京都港区南麻布)の松之輔師のお墓にしばしばお参りなさっています。

藤十郎さん

そうなのですね。お詳しくありがとうございます!

今もしばしばお墓参りをしてらっしゃるなんて、短い期間だったとはいえ、松也さんにとってとても大切なお師匠さんなのですね、きっと。

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