学者の良心
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私は国会中継を観ることがないので、その様子は新聞でわずかに知るばかりなのです。しかし新聞では要点が書かれているだけで、やりとりの口調や表情、議場の雰囲気、ヤジの様子などはさっぱりわかりません。
この一年、国会でとても重要な役割を果たしてきた人に尾身茂さんという学者さんがいらっしゃいます。この人はもともとかなり優秀な方だったようですが、あえて自治医科大学に行かれてへき地医療にも力を尽くされたようです。旧厚生省の技官となってからは、東南アジアの感染症対策の仕事をなさるなどの豊かな経験もお持ちのようです。
今は新型コロナウイルス感染症対策分科会の会長をなさっていて、学者側の
提言の責任
を担っていらっしゃるようにお見受けします。
学者というのは、専門の立場からものを言うのであって、政策決定するのはあくまで政治家の役割です。これはそうあるべきだと私も思います。学者は専門的にはすぐれていても、世情全体を見渡して総合的に判断することは困難だと思うからです。
この方は元厚生官僚というキャリアがそうさせるのでしょうか、昨年あたりは政治家に直言する迫力に欠けていたように思います。当時の、あの小さなマスクをした総理大臣は周囲の人に「忖度」させる名人。尾身さんもその術中にはまったかのように、よくわかりませんが感じていました。その結果この人は
御用学者
とさえ言われていたように思います。政治家の政策に合わせようとするのではなく、独自の観点からものを言って政治家の心を動かしつつ政策決定に進ませる役割なのに、政治家のやりたいことを補強する役割を担ったように見られたのだろうと思います。政治家というのは油断もすきもなりませんので、都合のいい時は「学者がこう言っている」と利用し、都合が悪くなると学者の言うことなど歯牙にもかけません。
ところが今年になってからでしょうか、いくらか雰囲気が変わってきて、政治家が嫌がるようなこともおっしゃるようになったようです。特にオリンピックの開催については「普通はない」(普通に考えると、こういう状況では開催できない、というほどの意味?)とまでおっしゃいました。遅かったと言えば遅かったのですが、君子は豹変す。間違いに気づけば学者の良心に従って改めればいいのです。
ところが、最後になって尾身さんのオリンピックについての提言には
「中止すべきと考える」
という言葉はなかったようです。ここにきてまた諦めたような、「大人の判断」とかいうものが発揮されたのでしょうか。提言なのですから、「中止すべきと考える」といったうえで「もし強行するのであれば無観客にすべきだ。それでもなお医学の常識の範囲を超えて有観客にすべきだと言われるならよほどの厳しい基準を作らねばならない」とでもいえばよかったのではないか、と私は感じています。現実には「無観客が望ましいが、有観客なら基準を厳しくすべきだ」という「現実的」なところに落ち着いたようです。
「落としどころ」という政治的な言葉があります。学者にもそういうことは必要なのでしょうか。私はどうも釈然としません。
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- [2021/06/22 00:00]
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コメント
学者のプライド
学者とは真理を求めて研究し、真理にはあくまで謙虚で、たとえ相手が権力を持っていても率直に真理を語るひと、だとわたしは思っています。
ところが為政者の都合に合わせて真理を曲げる学者も多くいます。東大原子力工学はじめ。
学者のプライドをお持ちではないのでしょうか。
🎵やたけたの熊さん
私の仕事場の連中(もちろん私も)に学者と呼べる人はほとんどいませんが、「わきまえた」人が多いですね。長いものには巻かれるのが人生哲学なのかもしれませんが、私はなんとも寂しいです。
「オリンピックの中止なんて言っても聞くはずがないから言わなかった」というようなことを分科会の一人が言っていましたが、わきまえてるなあ、と落胆しました。
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