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権力者のボンボン(1) 

ずいぶん前に書いたことがある話なのですが、少し違う角度からまた書きたくなりましたので申し述べます。
平安時代の中ほど、寛弘六年(1009)十一月二十五日に一条天皇の三番目の男子(のちの後朱雀天皇)が生まれました。当時の習慣では生まれて三、五、七、九日目にお祝いをすることになっていました。今でも「お七夜」という風習は普通にありますが、その元祖のような者です。そのうちの五夜、つまり十一月二十九日のことです。当日は雨が降っていたのですが、もちろんお祝いはおこなわれました。酒宴が繰り広げられ、禄が贈られ、

    「攤(だ)」

という賭け事がおこなわれたりしています。現代でいうなら、儀式のあとの宴会で酔っ払った連中がトランプや花札で博打を始めた、という感じでしょうか。
このとき、藤原道長の息子の能信(十五歳)と藤原義懐の息子の伊成(書家で知られる行成の従弟にあたるが家柄は能信に劣る。能信より少し年長)の間に暴力沙汰があったのです。
能信と伊成は位としてはほぼ同格でしたが、能信は道長という権威が後ろ盾、最高権力者の「ボンボン」(ただし母親は道長の後継者の頼通とは別)なのです。それだけに、この二人の関係は、今こそ同等の身分とは言え、いずれ能信が圧倒的に上位に位置すると予想されます。
この出来事は、何やら伊成が能信から辱めを受け(何かのことで罵られたのでしょうか)、こらえきれずに能信の肩を笏で打ったのです。すると周りにいた蔵人藤原定輔が縁から伊成を突き落とし、能信は従者を召し集めて伊成を殴らせ、さらには踏み伏せてたいまつで打ったのです。原因はわかりませんが、酔った勢いで「攤」の勝ち負けなど些細なことから起こったつまらない喧嘩だったのではないかと私は想像しています。
雨の夜です。縁側から突き落とされたら泥まみれでしょう。しかもよってたかって殴らせたというのですから、

    集団リンチ

のようなものです。
このときの伊成の悔しさは、単に暴力を受けただけでなく、相手が権力者のボンボンで誰もが自分の味方をしてくれない虚しさにあったのかもしれません。(道長の息子とはそんなに偉いものなのか)と切歯扼腕したのではないでしょうか。
伊成はこの翌日、若い身空で出家してしまいました。出家はあえて言うなら一種の自死行為です。もう現世に戻れないのですから。
道長の専横ぶりをあまり好ましく思っていなかったらしい藤原実資は「自分には子がいないが、なまじ子を持つとこんなできごとがあって嘆きの種になるだろう」と感慨にふけっています。
道長の権力が全盛の世にあっては、若い男が振りかざすものなど所詮蟷螂の斧に過ぎないのでしょう。

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