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権力者のボンボン(2) 

藤原能信という人物は傲慢、勝気な面があったらしく、かなり後のことになるのですが、彼が三十二歳の万寿三年(一〇二六)七月に、法会のあとの饗宴の場で異母兄の関白頼通に雑言を吐いたこともあります。この時は頼通も怒って能信を激しく面罵し、父道長も叱責しました(藤原実資の日記の『小右記』同年七月八日条)。頼通とはその後も確執が続き、さらに後年、能信は摂関家と血縁にない後三条天皇擁立に動いて、結果的に摂関政治の終焉を導くことになるのです。
親の七光りを笠に着て普段から傍若無人のふるまいをする男にプライドを踏みにじられた伊成は、めでたい席で衆人の目にさらされながら、数日来の雨でぬかるんでいた地面にたたきつけられて笑いものにされたのです。ひょっとすると、先に手を出したということで、伊成は喧嘩の責めも一身に負わされたのではなかったでしょうか。誰も彼もが左大臣家に追従したのか、孤立無援となった伊成の

    無念さと恥辱

を思うと、翌日出家するに至ったのも無理からぬことに思えてなりません。
道長はこの一連のできごとを日記に何と書いたかというと、まったく触れてもいないのです。なにもなかったかのように沈黙した道長ですが、彼自身能信の所業には眉をひそめるところがあったのではないでしょうか。
七夜、九夜の産養の日もそれぞれ伊成の涙のような雨が降りました。そして、彼の怒りが顕現したのか、藤原行成の日記『権記』によれば、産養の終わった翌日の五日の夜に雷鳴が轟き、蔵人頭公信が御卜(自然現象が意味する吉凶を占わせる)をさせるようにという天皇の仰せを伝えてきました。暖冬に加えての雷鳴が異変を感じさせたのだということです。そして七日には陰陽寮と神祇官に占卜(陰陽寮がおこなうのが「占」、神祇官がおこなうのが「卜」)が命ぜられ、夜になるとその返答が届きます。神祇官は「明春夏に疾疫がある」、陰陽寮は「辰巳(南東)、戌亥(北西)の方の大神の祟りで、天下に疾疫や兵革があり、天皇家には火事がある」と、いずれも

    ゆゆしい結果

を報告してきたのです。陰陽寮に重ねてどの神の祟りかを占わせると、伊勢、祇園、平野だとの回答があり、早速実検使(実情を調査する使者)が遣わされました。
結局、十二月八日には二十一社に臨時奉幣が遣わされることに決まりました(『権記』同日条)。「二十一社」は国家的な大事のあった時に奉幣される、伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野などの主要神社を指し、皇子誕生早々の異変に内裏はかなり神経質になっていることが知られます。伊勢、祇園、平野の三神社の祟りという公式見解は出ているものの、巷間では「伊勢ではなく伊成の祟りじゃないのか」などとひそひそ話が交わされたのではなかったでしょうか(知らんけど)。
1000年余り前の話です。しかし歴史は繰り返しています。
まったく、権力者のボンボンってやつは・・・。

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