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江戸時代の暦 

平安時代の安倍晴明という人はなんだか魔法使いのように思われて有名になってしまいました。彼のような陰陽寮の役人は例えば雨が降るのを祈願したり、逆に雨を止める祈願をしたり、あるいは寺を建てるときにどこがふさわしいかを占ったりすることもありました。その一方、陰陽寮には天文博士、暦博士も置かれ、それぞれ天文学や暦学を専攻していました。晴明の専門は天体観測で、彼は「天文博士」になっています。天体の動きを凝視してその動向をチェックすることが重要な責務でした。天文博士と並ぶ暦博士はもちろん暦法を研究しました。暦を作るのは簡単なことではなく、なにしろ太陰太陽暦で、月の動きで一か月を決めますので、一年は365日になりません。そうなると次第に季節感がおかしくなってきますので、おおむね19年に7回、閏月が置かれました。こういうこともきちんと計算できる人でないと務まらないのでした。平安時代後半には賀茂氏が暦博士になったのですが、この一族は室町時代になると滅んでしまいます。その後は安倍の系統である土御門氏が引き継ぎますが、こういう世襲はやがて破綻が来るもので、まったくそういう血筋ではない人からすぐれた天文学者が出現することもあるわけです。
江戸時代には

    安井算哲

という人物が貞享暦を作りました。ちょうど竹本義太夫が櫓を揚げたころですね。この人物は江戸幕府の役人でしたが、天文方の人ではありませんでした。この暦が実現されると算哲は天文方に採用されました。彼は「渋川春海」と名乗ってその後も活躍しました。
やがて幕府の天文台は浅草に置かれて新たな暦作成の準備がおこなわれたそうです。
大坂に麻田剛立という在野の天文学者がいました。剛立が開いた天文学の塾である

  「先事館」

からは山片蟠桃(やまがたばんとう)、間長涯(はざまちょうがい)、高橋至時(たかはしよしとき)らが輩出しました。
麻田剛立は豊後の人でしたが、大坂に来て医者をしながら天体観測をしました。高橋至時は大坂の町奉行所の同心、間長涯は質屋の息子だったのですが、その名声が江戸にも届き、彼らは幕府天文方に登用されて改暦の仕事をしました。従来の古代中国の暦法のみならず、西洋(オランダ)の暦法も詳しく学んだ人たちでした。そして彼らが完成したのが「寛政暦」でした。高橋至時の子に渋川景佑がいますが、この人もすぐれた天文学者で、「天保暦」をうちたてたのでした。
何となく昔の暦は平安時代も江戸時代も同じものだったと思われがちですが、そうではなかったのです。平安時代文学を勉強していると、たとえば「七月七日」ならいつでも「七日の月(上弦)」が出ていると理解すればいいのですがが、江戸時代はそうはいかず、『曽根崎心中』でお初と徳兵衛が心中した元禄十六年四月六日~七日は上弦の月ではなかったのです。

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