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嫌われつつも(1) 

11月9日、僧侶で作家の寂聴(瀬戸内晴美)さんが亡くなりました。1922年、つまり大正十一年のお生まれで、数え年でいうなら百歳。米朝師匠や住太夫師匠より少し年上でいらしたのですね。最近はあまり調子がよくないという噂が伝えられていましたので、とうとうその日が来たか、という感じでした。長く、そして波乱に富んだ人生を歩まれた方だと思います。

    寂聴さんは嫌いだ

という人は少なくありませんでした。それは寂聴さんの若いころに夫と幼い子どもを捨てて若い男性に走ったという私生活が知られているから、ということもあるでしょう。また、そういう経験をしておきながら恋愛についてえらそうに、しかもはっきりとわかりやすくものをおっしゃるのがかえって鼻につくという人もあるのではないでしょうか。そんなわけで、「瀬戸内晴美さん」が仏門に入られたことすら悪意に見る人が少なくないようです。こういう背景には、一度過ちを犯した人はどこまでも許さない、という社会の風潮があると思います。「ヤンキー」と呼ばれた人が教師になったり国会議員になったりするのは許せない、という考えと同じで、不倫して子どもを捨てるような人間が出家して偉そうなことを言うのは

    ちゃんちゃらおかしい

という考えになるのでしょう。
しかし問題は過ちを犯すことではなく、過ちを認めて改めようとしないことなのです。改めさえすれば許されることはいくらでもあるのです。何よりも見栄を張ることを大事にする権力者たちはたいていこの「改めない」態度を取りますので、私はそれが何より悪いことだと考えています。それどころか、悔い改めても許さない風潮は、かえって権力を持つ輩がかたくなに「改めてなるものか」と意地を張る結果を導くだけではないでしょうか。こういうことは結婚された眞子さん夫妻へのやむことのない中傷とも関係があると思います。正当な批判は大切ですが、上げ足を取って人をけなすことで留飲を下げるだけなら不毛なことだと思います。
私は寂聴さんの作品もさほど読んでいませんし、好きな作家というほどではないのですが、愛読者は多いですし、また話を聴きたい、聴いてほしいと思う人も少なくないのは紛れもない事実です。そして多くの人が救われたことも否定できないはずです。煩悩は誰しも持つもので、それによって犯してしまった過ちは許されることでしか消えないものだと感じます。寂聴さんを愛する人の多くは、「自分もあなたのように許してほしいことがある」と思っているのではないか、そんな気がしています。

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