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嫌われつつも(2) 

寂聴さんが亡くなったあと、作家の林真理子さんがお書きになっていました(『朝日新聞』11月12日付朝刊)が、寂聴さんは「作家というのは死んでしまえば、次の年には本屋から本が一冊もなくなってしまうものなのよ」とおっしゃっていたそうです。寂聴さんのお書きになったものに関して言えば、そこまで極端なことはないと思いますが、なかなか真実を衝いた言葉だと思います。ほとんどの作家というものは、その人が生前いかに人気者であっても、ベストセラー作家であっても、亡くなってしまうとあっという間に姿を消してしまうものです。たとえば、今の若い人が

    遠藤周作

の本をどれほど読んでいるかというと、私の知る範囲ではほとんどゼロといってもよいのです。それどころか、「遠藤周作って、誰?」という反応もかなり返ってくると思います。私だってかつてのベストセラー作家である尾崎紅葉も泉鏡花もあまり知りません。しばしば新聞の訃報欄に「○○賞作家」が亡くなったという記事が出るのですが、「こんな人がいたのか」という場合が少なくありませんし、もちろん一冊として読んだことがないのです。
寂聴さんはそういうことをよく知っていたのです。作家である自分を見るもうひとりの自分がいたかのようです。
寂聴さんのお話を聞いたことはありませんが、「語録」などを見ますと、私でも言えそうなことが少なくありません。では寂聴さんは私と同じレベルなのかというと、それは違うのです。発信力が桁外れに大きい。これは寂聴さんの人生そのものやペンの力、語り掛けのエネルギーが醸成してきたものであって、私など及ぶことのできない大きな力です。私が言うと「ボヤキ」に過ぎないことでも、寂聴さんがおっしゃると「金言」になる場合もあるでしょう。宗教者というのはそういう力を持っているものです。
住職をなさっていた岩手県の

    天台寺

での法話の様子をとらえた写真が前述の新聞記事に残っています。数多くの聴衆が詰めかけて、どなたもじっと寂聴さんを見つめて話を聞いていらっしゃいます。絵巻物に残る一遍上人とか日蓮上人とか法然上人とか、そういう人たちに向ける人々のまなざしと同じような目の光が感じられます。
私は寂聴さんの生き方がうらやましくないと言えばうそになります。つらいことも多かったでしょうが、自分の思いを行動に移せる、とても私にはまねのできない立派な人だと思います。
しかし、真似ができないとしり込みしているだけではつまらないのです。私ももっと前向きになって寂聴さんの万分の一でもいいから納得できる晩年を送りたいと思っています。

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