180度の転換
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昨日書いたお医者さんの本(岩田健太郎『食べ物のことはからだに訊け!』)には続きがあります。岩田さんは、学問において何か論争が起きたときに大切なのは対話だとおっしゃっています。
古来、対話形式の著作というのはかなりあります。代表的なのはプラトーンでしょう。その著作はたいてい対話の形で書かれています。孔子もいつも弟子と話し合って、彼の話をまとめた『論語』は弟子との対話が軸になっています。ガリレオ・ガリレイも『天文対話』で天動説、地動説の主張者と良識派の人物が4日間話し合う形で、地動説がすぐれていることを唱えました。
岩田さんはヘーゲルの弁証法にも触れています。「エライ人」の言うことが正しいわけではないし、多くの人が言うことが正しいわけでもない。人は、自分の考えが正しいのか、反対側の意見が正しいのかをいろいろ考えて止揚していくのです。止揚はドイツ語のAufhebenのことで、こちらの方が通りが良いかもしれません。あるものを否定しつつ、それを契機として保存しておいて、より高度な段階で生かそうとすること。哲学の言葉は難しいですね。
ここで岩田さんは、哲学者の
鷲田清一さん
のおっしゃる「相手の言葉を受けて自分が変わるような覚悟ができているような」コミュニケーションこそが大切だとお書きになっています(ただし、これは鷲田さんの言葉かどうか、確認できていません。鷲田さんが引用されているだけではないかと疑問を持っています)。
今どきの、何でも自分の言うことが正しいという前提でしかものの言えない人たちはここをよく弁えてもらいたいのです。
人の言うことを頭から否定することが目的で、そのためには多少の詭弁などものともせずに振り回し、言い負かしたら「ざまあみろ」という顔をする人たちは最近とても目立つように思うのです。昔からこういう人はいくらでもいましたが、そういう人が跋扈していることはあまりなかったのではないでしょうか。品がない、言葉が乱暴だ、人を侮辱する、という、それだけのことでも軽んじられたはずです。
ところが最近はどういうわけかこのたぐいの人たちがメディアで活躍し、政治の世界でもやたら目立つようになったのです。そうなると
悪貨は良貨を駆逐する
のです。まともなものの考え方の人が単に訥弁だとか権力を持たないとか、それだけの理由で取り入れられず、とんでもない考えがはびこってしまいます。
岩田さんは前述の「自分が変わる覚悟」の考えをもとにして、坂本龍馬の例を挙げています。龍馬は勝海舟を殺害しようとしていながら、実際に勝に会った時、自分の考えを180度転換したとされます。誇張されたエピソードになっているのかもしれませんが、少なくともこういう姿勢こそがほんとうに求められる賢者の考え方なのではありますまいか。
私はこの方の本を、まったく違う興味から読み始めたのに、こういうところで立ち止まったのは思いがけない収穫だったように思います。
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- [2022/11/16 00:00]
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