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跡に残るもの 

藤原定家の歌に「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」があります。この歌は「見渡せば花も」と言ってまず一面の花を連想させます。さらに「紅葉も」と続けて春の花、秋の紅葉という最高に美しいものを描いています。ところが次の句で一転して「なかりけり」とそれらすべてを打ち消してしまうのです。花も紅葉もそこにはありません。ないものを「花も紅葉も」とわざわざ言っているのです。読者(歌ですから「聞き手」とも言えます)の目の前に広がった美的なものが一切なくなってしまい、あとに残ったのは「浦の苫屋」だけ。そんな秋の夕暮れだというのです。佐佐木信綱作詞の軍歌に

    勇敢なる水兵

という歌があります。日清戦争の黄海海戦の際の逸話をもとにした歌だそうです。この歌の冒頭は「煙も見えず雲もなく風も起こらず波立たず」というもので、なんだか「ないない尽くし」のようです。この次に「鏡のごとき黄海は」という言葉が続きます。つまり何もないことを表現することによって、静謐な海の姿を現しているのです。それをあえて「煙」「雲」「風」「波」という言葉を用いることでほんとうに何もないのだという印象を与えています。山口洋子作詞『誰もいない海』も秋になって誰もいなくなり、海だけがそこに残っています。
このように、「ないもの」を表現するというのはなかなかおもしろい方法だと思います。私も短歌を作るときに一度使ってみたいのですが、案外これが難しいのです。
能のひとつのパターンとして、亡霊が現れて、回向をしてもらった結果、姿を消す結末のものがありますが、これは「花も紅葉も」の部分が登場人物(通常はシテ)で、それが消えることによって、あとには「浦の苫屋」にあたるものだけが残っていた、という描き方をします。たとえば「船弁慶」なら知盛の亡霊が弁慶の祈りによって退散し、「また引く潮に揺られ流れて、跡白波とぞなりにける」と結ばれます。これは「船弁慶」をもとにした文楽『義経千本桜』「渡海屋大物の浦」もほとんど同じです。
最近Facebook友だちの方から教えていただいた、『源氏物語』の落葉の宮の霊をシテとする

    落葉

も「山風ばかりや残るらむ」で終わります。すべてがなくなって、あとには風が吹いているだけ、というのです。
こういう例をいろいろ見ていると、無常観とかはかなさという日本人の美意識につながるものが感じられます。

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コメント

藤十郎さん

能楽の勝修羅の屋島(八島)も同じ作りですね。義経の戦いぶりが激しい分、すべてはカモメの群れと浦風に過ぎなかったと分かったときの寂寥感が強いですね。
義経はあまり好きではありませんが、心を動かされる曲です。


>屋島は、源平の戦における、義経の勇敢な戦いぶりを描いたもので、勝修羅と呼ばれる。田村、箙とならんで三大勝修羅とされ、徳川時代には武家たちにことのほか喜ばれた。

義経の戦振りを描いていることから察せられるように、晴れやかさと躍動感に満ちている。前段も人をあきさせないが、後段に至っては、舞台狭しと駆け回る義経の勇姿が観客を圧倒するほどである。

以下は〆の文章です。

>地「水や空空ゆくもまた雲の波の。打ち合ひ刺し違ふる。船軍の懸引。浮き沈むとせし程に春の夜の浪より明けて。敵と見えしは群れゐる鴎。鬨の声と。聞えしは。浦風なりけり。高松の浦風なりけり。高松の朝嵐とぞなりにける。

http://infocom.intra.teijin.co.jp/tgcontents/Edge/IE_error.htm

🎵如月さん

なるほど、そうなのでしょうね。
たしかにあったものが幻のように感じられるのは、日常生活でもよく実感するのではないでしょうか。無常観は、能に限らず、日本の思想や文学にとってとても重要なものの見方だと思います。

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