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杖を持って 

何故山を越える自動車が来ないのかというと、いろいろ理由があるのです。人口が少ないのもそのひとつです。しかしこの道を通ると街に出るのにとても便利なので、かつてはけっこう車の往来があったのです。それがなくなった理由は、近くに立派な、驚くほど立派なトンネルや幅の広い道ができたからなのです。こんなに立派なものを作る必要があるのだろうか、いや、どこからこんなお金が出てきたのかと思うくらいだったのです。しかしその答えは何となく想像できます。この県は田舎なのに、明治以来繰り返し総理大臣を輩出してきたのです。県内のほかの地域を見ても道路はほんとうに立派なものが多くて、私は何度も驚愕したくらいです。政治家がこうやって利益を誘導しては票を得ている、まさに日本の政治の縮図を見ているようです。
さて、山陽道の話です。とぼとぼと歩いて山道を登っていくと、途中で脇道が見えました。車道から離れたその道は本来の山陽道でした。車が通れる道にはできなかったようで、車道はU字に迂回することで登って行き、やがてまたこの歩行者しか行けない道と合流することになるようでした。私は、せっかくなのでその脇道、つまり旧山陽道を歩いてみたのですが、これがもう

    怖いのなんの(笑)。

舗装なんてされていませんから、昔ながらのデコボコ道で、足をひねりそうになりながら登っていくのです。誰か一緒ならもっと歩いたと思うのですが、もし足をくじいたりしたら大変ですので、2~3分歩いたところでやめる(あきらめが早すぎ?)ことにしました。こんなところを昔の人はよく歩いたものだと思います。歩くだけでなく、馬や大名駕籠も通ったはずなのですが、どうやって昇り降りしたのだろう、と不思議です。そういえば、吉田松陰も罪を着せられて

    唐丸駕籠

に乗せられてここを通ったはずなのですが、怖かっただろうな、と思います。
もう少し上まで行きたかったという後悔がありますので、また機会があれば、なんらかの杖を持って行きたいと思います。水戸黄門が杖をついて旅をするのはもっともだと思います。
行くためには、くだんの老女にもうひと頑張り悪いことをしてもらわないといけないかもしれませんが。
このとき詠んだ歌を少し。なお、最初の歌の「合戦」というのは第二次長州戦争(長州征討、四境戦争などとも)のことです。
 合戦の砲台跡にのぼらんと
  崖に咲く花踏みしめて行く
 松陰が唐丸駕籠の跡を追ふ
  我こそ罪は重かるべきを
 唐丸の下りしといふこの坂を
  危ふく行けば眩暈激しき

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