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ほととぎす 

俳人、歌人の正岡子規(1867~1902)は幼いころから漢籍に親しむなど、かなりの俊才だったようです。松山中学を退学して東京に出て、のちに帝国大学哲学科から国文科に移りました。
この人は多くの号を用いたことでも知られ、子規のほか、獺祭書屋主人、竹の里人をはじめとして50以上の号を用いたとされます。おもしろいのは「野球」という号で、彼の幼名の「升(のぼる)」から「野球(のぼーる)」としたものです。アメリカのベースボールを「野球(やきゅう)」と訳したのは中馬庚だったそうですが、「のぼーる」でもよかったかもしれません。「プロのぼーる」「のぼーる中継」など、いかがでしょうか。
「子規」という号は、「ほととぎす」とも読めます。この鳥については、たくさんの漢字表記があって「杜鵑」「不如帰」「時鳥」「霍公鳥」「杜宇」「蜀鳥」その他の書き方をします(後述)。古典文学の写本などを見ているとこれらの字が出てきて、とまどうこともあります。どれかに統一してくれるとありがたいのですが。私は横着者ですから、メモを取る時などは簡単な「時鳥」ばかり使っていました。
子規は21歳になる年の夏に初めて喀血するのですが、その翌年にさらにひどく血を吐き、

    肺結核

という診断を受けました。それで「鳴いて血を吐く」と言われるほととぎすに自らをなぞらえて「子規(しき)」と号したとされます。「死期(しき)」を覚悟していたかどうかはわかりませんが、当時の結核はとても長生きできるものではありませんでしたから、自分の命の限界を赤い血の中に見たことでしょう。それでも彼は激しい情熱をもって俳句や短歌の革新に心血を注ぎました。凡人には、少なくとも凡人中の凡人である私ごときにはまねのできないことだと思います。
30歳を過ぎるともう満足に歩くこともできず、35歳の誕生日を迎える少し前に亡くなりました。やはり35年の人生だった

    モーツアルト

もそうなのですが、この短い人生の中でどうしてあれほどの仕事ができたのか、不思議ですらあります。
ほととぎすはこのように、その鳴き声が血を吐くと言われました。古代中国の蜀の国に杜宇という人物がいて、荒れていた蜀の国を、農業を振興することで立ち直らせて、彼は望帝となったそうです。やがて望帝は亡くなり、その霊はほととぎすになり、初夏になると農業の時節になったことを告げに現れたのです。のちに蜀は滅亡して秦の始皇帝によって国土は統一されます。そこで望帝の魂であるほととぎすは「不如帰(帰るにしかず。帰るほかはない)」と言って激しく泣き血を吐いたのです。そのためにほととぎすの口の中は赤いのだと伝えられます。
私も数回生きるか死ぬかというところまで行きましたが、血を吐いた経験はなく、まだ若かった子規がいったいどんな気持ちになったのか、そしてその自分を望帝のほととぎすになぞらえる、諧謔すら感じられる精神については想像を絶するものがあります。

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コメント

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🎵◯◯さん

お久しぶりです。あのころは楽しかったですね。
子規については知らないことだらけですが、私も根岸や松山を訪れたときはかなりの感慨を覚えました。私はもう、子規の2倍近く生きているのに、何とも情けない限りです。子規に比べるのが厚かましいのですが(笑)。
どうかますますお元気でお過ごしくださいませ。

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