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浮ついた言葉(2) 

ここまでで、高畑監督は4人の求婚者を2グループに分けているようです。車持皇子と阿部右大臣(どちらもニセモノを持参し、あわや成功するかという所まで行きながら最後の詰めが甘く失敗する)が第1。大伴大納言と石上中納言(どちらも本物を求めて自ら取りに行くが、失敗)が第2。
第2グループはまた「動物の持っているもの」という共通点もあり、こういう設定は原作も同じです。
さて、扱いに困るのが石作皇子です。昨日書きましたように、原作では実にあっけなく失敗するため、映像化するにあたっては話を膨らませたいところです。その膨らませ方こそが高畑監督の腕の見せ所でした。むしろ、この人物にこそかぐや姫に大きな打撃を与える役割を与えようと考えられたのかもしれません。事実、この石作皇子のエピソードはかぐや姫に決定的な打撃を与えることになります。
球根の場に再登場する石作皇子は髭を落としています。もともと美男子ですが、そのことでさらに若々しさが加わって、

    女好き

しそうな顔なのです。さて、彼は「仏の御石の鉢」を持ってきたのかというとそうではなく、なんと、一輪の花を手にしていたのです。それをかぐや姫に渡すように翁に言い、そのあとかぐや姫に聞こえるように延々と長ぜりふを言います。

「三年(みとせ)前、初めてお声を耳にして以来、かぐや姫様のことが片時も心から離れず、私は必死に仏の御石の鉢とやらを探し求めました。野を越え、山を越え、国中の寺を訪ね歩き、やがて疲れ果てて道端の石に腰を下ろした時でした。ふと、足元に咲く一輪のレンゲの花が私の目にとまったのです。ああ、私の姫への思いは人知れずとも可憐に咲くこの花のようなものなのだなあ。そう思った時、私は翻然と悟りました。私が真実姫に捧げたいのは、そして姫が本当にお望みなのは、得がたい宝物などではなく、この一輪の花。すなわち、姫を愛する我が真心ではないのかと」

仏の石の鉢は釈迦の用いたものですから、インドかネパールあたりにあるはず。いくら「野を越え、山を越え、国中の寺を訪ね歩」いたところで見つかるはずはないのです。そういう理屈は差し置いて、ロマンティックで女心をくすぐるような流麗な言い回しを続けるのです。必死に探したというアピールをし、どうにも見つからないまま疲弊して道端の石に腰を下ろす。おあつらえ向きに一輪のレンゲの花。それは彼の

    真心の象徴

だというのです。たしかに、どんな宝物よりも人を愛する心の方が美しく、尊く、かけがえのないものでしょう。この「真心」という言葉を聞いた時、かぐや姫もさすがに動揺します。陶酔したように語る色男ならではの手練手管によって、かぐや姫の心を動かしたのです。あるいは映画を観ている人も「そうだ、そのとおりだ」と石作皇子にいくらかでも心を寄せ始めているかもしれません。それはもちろん、高畑監督の「罠」なのですが。

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