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自ら悟るもの 

このところ、下手な短歌を詠んでいます。いや、実際は小学生くらいから5とか7という音の数に興味があって、川柳のような俳句のようなものは作っていました。しかしどうも俳句では自分の思いを表現できないような気がして、いつしか短歌の字数に心が引かれるようになりました。中学生の時はほとんど「狂歌」というべきふざけた内容の三十一文字を作っていました。この時期が、今の私の生き方にとって大きなテーマである「笑い」と「歌」の下地となっていたことはおそらく間違いないでしょう。落語を聞いてその真似をして語ったりしていたのもこの時期が一番頻繁だったと思います。
高校生になって

    『伊勢物語』

と出会ったことも今につながっていることは間違いなく、この中に書かれている和歌にも大きな関心を持つようになり、それを模倣した歌を作りました。
これらの経験は浄瑠璃作りにも大きな役割を果たしていると思います。
現代短歌のきらめく星の中でもひときわ美しく感じられる人に河野裕子さん(1946~2010)がいらっしゃいます。現代短歌に疎い私でも、河野さんの人口に膾炙するほどの歌は知っているように思います。
その河野さんはエッセイ(というよりは短編論文のようなもの)もよく書かれ、内容の濃いものとしていくらか読んでいます。亡くなったあとにまとめられたもののひとつに『どこでもないところで』(2014年刊。中央公論新社)があります。この中に、短歌雑誌の『短歌』(角川文化振興財団)の1982年10月に掲載された「結句の責任」という小論文があります。この中で、河野さんが藤原定家の

    『近代秀歌』

の一節の「眼をさまされる思いをする一行」を紹介していらっしゃいます。定家の父藤原俊成の言葉なのですが、それは「歌は、広く見、遠く聞く道にあらず。心より出でて自ら悟るものなり」というものです。「短歌というのは広く、あるいは遥かな時代遠くを勉強して詠むものではない。自分の心が求めるものから湧き出て自ら悟るものなのだ」ということでしょう。河野さんは「歌一首の中での自己の要求、問いかけには、誰も肩がわりできない、自分だけがその問題について考え、判断し、答えを選ぶ」という点においてこれがとてもむずかしいことだと再認識されたようです。
これは短歌を詠むものの心得になると同時に、自分の人生のありようを考えるときに必要なことだろうと思います。言っていること自体は簡単なことで、誰でも言えそうなのですが、その道を究めつつあった俊成の言葉として聞くとあらためてハッとさせられるように思います。
私は大学時代ずっと平安時代の和歌を勉強してきましたので、つい「広く見、遠く聞く」ことに熱心になりがちです。理屈が先走ったものを作り、心から本当に湧き出ている感情が自分でとらえきれないことが多いと思います。
怒りなら怒り、喜びなら喜びをきちんととらえて表現するのは実はなかなか難しいことです。私は今ちょっとしたことで怒りを感じていることがあるのですが、それすらどう表現すればいいのか、迷宮に入ったような気持ちです。感情に任せてしまうのも性急に思え、かといって理論武装しようなどと考え過ぎると逆に自分が縛られるようで、別の袋小路に入ってしまいます。
古人の言葉は時として人生を変えるくらい大きな意味を持つことがありそうです。

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