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待つとし聞かば今かへりこむ 

先日書きましたように、高畑勲監督『かぐや姫の物語』には「まわれ、まわれ、まわれよ、水車まわれ、まわってお日さん呼んでこい」というわらべ歌が出てきます。「まわる」という言葉は時の動きや人の一生に深くかかわるものだと感じます。我々の人生は、生と死の間を直線的に進むのではなく、同じことを繰り返しながらぐるぐる回ることで進んでいくものです。落ち込んだときも、次の日にはまた日が昇ることで元気になることがあります。冬至になると一陽来復。一日、一年、それらが回っていきます。有為転変の世の中といいながら、実はぐるぐる回るのが我々の日常。「輪廻」もまた人生の繰り返しでぐるぐる回ります。回るという運動は人生の時間の動きそのものでしょう。
『かぐや姫の物語』のかぐや姫は、かつて地上に降りた人が口ずさむ

    「まわれ、めぐれ、めぐれよ」

という歌に心惹かれ、自分のその地に行ってみたいと思ったのです。その人の歌は「まつとし聞かば今かへりこむ」で終わるのでした。もし私を待っていると聞いたならすぐにでも帰りましょう、ということです。なぜその歌が忘れられないのか、そこにはほんとうの愛があるのではないか、そう思ったのでしょうか、かぐや姫は地上にあこがれを持ちます。地上は禁断の場所で、かぐや姫はその地に憧れるという罪を犯し、その罰としてこの地上に降ろされたというのです。
この一節は

    在原行平

の「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今かへりこむ」を使われたのでしょう。行平が因幡に下向するときに詠んだ別れの歌なのですが、今でもどこかに行ってしまったペットに帰ってきてほしい時にこの歌をおまじないとして使うことがあるようです。あの内田百閒も自分の猫がいなくなったときにこの歌をまじないに使ったそうです(内田『ノラや』中公文庫)。なお、「まつ」は「(因幡の山の峰に生えている)松」に「待つ」を掛けています。
古歌を用いることで古風にして、「わらべ歌」ではない大人の悲しみが歌われているようです。しかしどうしても現代人には意味が分かりにくいので、かぐや姫が月に帰ることを告白したあと、この歌を媼の前で歌うと、媼がきちんと「本当に私を待っていてくれるのなら、すぐにでもここに帰ってきます」とその意味を説明しています。媼が自分で納得しているようで、実は映画鑑賞者に説明する役割を持っているのでしょう。
私はあくまで素人考えではありますが、つい脚本を書くなら、という視点で見てしまいます。もし私が書くなら、行平の歌の四、五句をそのまま用いるのは避けただろうと思います。
この歌は『古今和歌集』所載のものですが、

    『百人一首』

にも採られているため、かなりよく知られた作品だと思います。それだけに、私に関して言えば、元の歌の臭いが残り過ぎて何か心に沁みるものがありませんでした。いや、高畑さんはその香りを残すことを狙って、あえてこの有名な歌の一節を使われたのかもしれません。いわば引き歌のように使ったのだ、ということも考えられます。映画をご覧になった人も「あの言葉、どこかで聞いたことあるね」と強い印象を持ちながら帰られた方が少なくないでしょう。
あくまで「私なら」ということなのですが、古風なのはいいと思いますので、少しわかりにくい、新たな歌詞を作って、媼に「現代語訳」させるくらいがよかった、と思っています。
私はたまたま古典文学を勉強してきたからつい元の歌の臭いを強く感じすぎるのかもしれません。

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